特別な価値持った「日本でプレー」

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 プムラピースリブンヤコという名前をご存じの方がどれぐらいいらっしゃるだろうか。高校選手権でベスト4に進出した鹿島学園のタイ人GKである。

 

 まだ高校2年生ながら、体格に恵まれ、高いフィード能力を持ち合わせた彼は、将来が大いに期待される逸材である。誰にとって? もちろん、タイの人々にとって。鹿島学園の快進撃とともに、タイではプムラピーに対する関心がうなぎ上りの様子をみせている。SNSでは、気の早いファンから「すぐに代表に抜擢するべきだ」との声まで上がっている。

 

 U-17タイ代表でもあるプムラピーにとって、将来のA代表入りは現実的な目標でもあるだろう。日本の高校でプレーした選手が、代表選手となって日本代表と対峙する。それはタイの人々にとっての夢であると同時に、彼の育成に関わった日本人、あるいは戦った選手たちの夢にもなろう。

 

 わたしが驚くのは、なぜタイの人々はプムラピーに注目するのか、それは彼が日本でプレーしているからだ、という論理が成立してしまう点である。

 

 40年前、高校選手権は一人のスターを生んだ。ブラジル人留学生アデミール・サントス。東海大一(現東海大静岡翔洋)を初の日本一に導いた左利きのテクニシャンが日本国籍を取得した際、日本代表の明るい未来を想像した人は少なくなかったに違いない。

 

 だが、度重なるケガに泣かされ、彼は日本代表はおろか、Jリーグでもほとんど輝きを放つことはなく28歳で現役を退いた。

 

 サントスが人気者になっていたのとほぼ同時期、スポーツメーカーのミズノが自社広告の顔として抜擢していたのが水島武蔵だった。いまならば「誰?」と思われる方も少なくないだろうが、小学校時代にペレにその技術を絶賛され、10歳にして日本を飛び出し、サンパウロの下部組織に入団した彼は、大空翼のモデルともされる日本サッカー界の希望だった。ペレとブラジル。それだけで、当時のサッカーファンにとっては十分すぎるほどのお墨付きだったのだ。

 

 89年、日本に帰国し日立に入団した水島は、Jリーグ開幕の1年前となる92年に現役を引退する。原因となったのは、サントス同様、ケガだった。

 

 将来を嘱望されながら、若くして現役を去った2人を、「間違いなく代表になれる器だった」という人もいれば、「いや、過大評価だった」という人もいる。いずれにせよ、彼らが時代の寵児となったのは、背景にブラジルがあったから、だった。サントスに流れるブラジルの血が、水島が渡ったブラジルの地が、日本人の期待をあおったのだ。

 

 ゆえに、感慨深い。

 

 タイの人々がプムラピーに期待を寄せるのは、彼が日本でプレーしているから、である。40年の月日を経て、外国人が日本という土壌に特別な価値を感じるようになったというわけだ。

 

 サントスの活躍は、後の三都主アレサンドロや田中マルクス闘莉王につながった。水島のブラジル行きがなければ、カズの人生はまた違ったものになっていたかもしれない。プムラピーの挑戦も、おそらくはタイのサッカー史に何らかの印を残していくことになる。

 

 タイから見れば高みに感じられるかもしれない日本の土壌には、しかし、まだまだ向上の余地がある。40年前の日本を懐かしみ、現在のタイを愛おしく感じているわたしは、10年後、2026年という年をどのように感じているのだろう。

 

<この原稿は26年1月8日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>

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