日本を変える“常緑の国立ピッチ”
6万人を超える観衆が高校生の試合に詰めかける。確かに、世界広しといえどもそうあることではない。日本国内はもちろん、海外からも驚嘆の声があがった高校選手権の決勝だった。
もっとも、高校サッカーが6万人以上の観衆を集めたのは、今回が初めてというわけではない。昭和58年度の第62回大会決勝は、帝京対清水東という名門同士の対決だったこともあり、旧国立競技場は6万2000人の観客で埋めつくされた。文字通り、立錐の余地もない超満員だった。
だが、昭和の6万人超と令和の6万人超は、まるで意味合いが違う。昭和の高校サッカーは、トヨタカップが始まる80年度まで、国立が埋まる唯一のサッカーイベントだった。天皇杯決勝でも、日本代表の試合でも起こり得なかったことを起こすのが、高校サッカーの決勝だった。それは、素晴らしいことであったと同時に、当時の日本サッカー界のいびつさを如実に表す現象でもあった。
試合にかける思いの熱量に、昭和と令和、大きな違いがあるとは思えない。ただ、昭和の高校生には、卒業の先に新たな目標を見つけること自体が困難だった。令和の高校生が当たり前のように見据えるプロ、海外、W杯といった目標は、マンガの中にしか存在しなかった。
もう一つ、昭和のサッカーには存在しなかったもの、存在自体が不可能だと言われていたものがあった。
緑の冬芝、である。
日本では、冬でも青々とした芝生が生育するのは不可能だというのが、当時の常識だった。一体全体、あれは誰が巻き散らかしたデマだったのか。トヨタカップではテレビ映えするため、緑のスプレーで茶色い芝に着色した、なんてこともあった。
幸い、昭和のデマはいつの間にやら駆逐され、国立に限らず、冬でも青々とした芝生は日本全国で見られるようになった。今回の高校サッカー決勝でも、ほとんどの方は緑の芝生にさしたる感慨も受けなかったのではないだろうか。
わたしは、シビれた。
高校サッカー決勝の前日、国立競技場では大学ラグビー日本選手権の決勝が行われた。その前日は高校サッカーの準決勝2試合である。3日間で4試合という、グラウンドコンディションを考えれば過酷過ぎる日程だったにもかかわらず、1月12日の国立競技場は、美しく整った芝で選手たちを迎えた。
昭和62年12月6日といえば、“雪の早明戦”として有名だが、その1週間後に行われたのがポルト対ペニャロールのトヨタカップだった。これまた“雪中の激闘”として記憶される伝説的な一戦だが、ラグビーとサッカー、両方を取材していたカメラマンが言っていたことを思い出す。
「雪が降らなかったら、トヨタカップ、大変だったよ」
つまり、“雪の早明戦”によって、国立のピッチは相当に荒れており、1週間程度でサッカーの国際試合が行われるレベルにまで回復させるのは、ほぼ不可能だったというのだ。雪は、そんな現実を覆い隠してくれた。
常緑のピッチを常識とした日本だが、芝生を守るため、という理由で使用回数に制限をかけているスタジアムは珍しくない。だが、1月12日の国立は、管理者次第でラグビー、サッカーの連続使用も問題なく可能だということを教えてくれた。
これが令和の常識として定着すれば、スタジアムはもっと多くの人が利用できる施設になる。国立から、日本が変わっていく。彼らの知見は、日本を変える。
<この原稿は26年1月15日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>