サードベースコーチはプロ野球における10人目のプレーヤーである。それを証明したのが1987年の西武対巨人の日本シリーズだった。
 第6戦の8回裏。2対1と西武が1点リードで迎えた2死一塁、西武・秋山幸二の打球はセンター前に飛んだ。
 普通なら一、三塁の場面。ところが一塁ランナーの辻発彦はノンストップで三塁ベースを駆け抜け、本塁を奪ったのである。

 この球史に残るビッグプレーを演出したのがサードベースコーチの伊原春樹だった。
 テレビカメラのレンズは巨人のセンター、ウォーレン・クロマティの緩慢な返球を映し出していた。これを見抜いていた伊原の手腕に評価が高まった。
 しかし、事はそう単純ではなかった。もっと言えばクロマティの緩慢返球など、とうにお見通し。伊原が文字どおり目を皿のようにして、まばたきすら我慢して追ったのは、ショート川相昌弘の顔の動きだった。

 後日、伊原は語ったものだ。
「もし川相が一瞬でもサードの方に顔を向けていたら、私は辻をストップさせていました」
 実は伊原、オープン戦で川相が走者への注意が散漫になる点にきづき、いつかこのクセを利用してやろうと虎視眈々と狙っていたのである。

 かくも重要な任務のサードベースコーチをシーズンに入って2人も“解任”したのが中日・高木守道監督である。
 最初のサードベースコーチは現役時代、俊足で鳴らした平野謙。5月16日の千葉ロッテ戦で二塁走者の大島洋平が本塁で憤死すると「タイミング的に無理ということ」と激怒し、3日後、平野を2軍に落とした。
 代わりを務めた渡辺博幸の仕事ぶりも指揮官は我慢ならなかったようだ。5月27日の福岡ソフトバンク戦での消極的な指示を槍玉にあげ、試合中に一塁ベースコーチの上田佳範との“配置転換”を行った。

 いわばチームの信号機をコロコロ切り換えていいのだろうか。3連覇の“黄信号”とならなければいいが……。

<この原稿は2012年6月25日号の『週刊大衆』に掲載されたものです>

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