「高木、オマエがキャプテンだ」
「えっ……!?」
 あまりの突然のことに、高木悠貴は驚きを隠せなかった。その日、高知高校は全国高等学校野球選手権の初戦で敗れていた。センバツに続いてラスタバッターとなってしまった高木は、3年生への申し訳ない気持ちで野球を辞めようと考えていた。そんな矢先のことだった。高木の気持ちを知ってか知らぬか、島田達二監督はその日の夜、宿泊先のホテルでキャプテン就任を告げたのだ。
「そんなこと言われたら、もう続けるしかないですよね(笑)」
 高校野球最後の1年がスタートした。
 新チーム結成後、まもなくして秋の県大会が開幕した。準決勝まで順当に勝ち進んだが、決勝では因縁のライバル、明徳義塾高校に2−6で敗れた。その後の四国大会では準々決勝で今治西高校(愛媛)に2−5で敗れ、センバツの切符を掴むことはできなかった。
「この時のチーム状態は、あまりよくなかったですね。四国大会に行けただけでも上出来だったと思います」
 無論、冬場のトレーニングは過酷さを極めた。
「あれはもうやりたくないです……」
 今でも高木の脳裏に焼き付いているほど苦しいものだった。

 屈辱的な逆転負けからの再建

 春になり、高木は最終学年となった。いよいよ高校野球最後のシーズンが幕を開けた。夏の大会の前哨戦ともいえる春の大会では、2回戦で強豪・高知商業高校に7−2と快勝するなど、チームの仕上がり具合は順調かと思われた。ところが、準決勝の追手前高校戦で思わぬ敗戦を喫してしまう。8回を終えた時点で、高知は8−2と6点のリードを奪っていた。ところが9回表、なんと追手前に一挙6点を奪われ、同点とされてしまったのだ。結局、延長戦の末、高知は9−10で敗れた。

「この時は、何が起きたのかわかりませんでした。途中でエースが降板して、いつでも戻れるようにレフトに下がったんです。ところが、そのレフトの守備でエラーしたり、代わったピッチャーが四球を出したりして……。そうしているうちに、相手が勢いに乗ってしまいました」

 屈辱的な敗戦に島田監督は怒りがおさまらなかったのだろう。学校に戻るなり、高木たちは過酷なランニングを課されたという。
「でも、走らされて当然くらいの負け方でしたから……」
 もう少しでコールドにできるところまで迫りながらの逆転負けに、選手たちのショックも決して小さくはなかった。

 だが、チームはそのまま沈まなかった。その敗戦を機に、気合いを入れ直した高知は、その年の夏、快進撃を見せた。準々決勝まで順当に勝ち進んだ高知は、準決勝でも高知中央高校に7−0で8回コールド勝ちをおさめ、2年連続決勝進出を決めた。トーナメントのもう一方の山では第1シードの明徳義塾が高知商に、7回まで3−1とリードしながら終盤に逆転を許し、わずか1点差で姿を消していた。

「自分たちの前の試合で明徳が破れたのを見て、『よし、これで自分たちの甲子園行きは決まった』とみんなで話をしていたんです。実は明徳には新チームになって、一度も勝っていませんでした。でも、高知商には勝っていたので自信がありました。泣いている明徳の選手たちを横目に、『チャンスだ』と思っていました」
 その言葉通り、決勝では序盤に1点を先制されたものの、慌てることなく中盤に大量得点を奪って逆転。結局、10−2と大差で高知商を破り、2年連続での甲子園出場を決めた。

 約束の直球勝負

 高木にとって、3度目の甲子園。まだ一度も試合後に校歌を歌っていなかった。3度目の正直を狙った最後の甲子園、初戦の相手は優勝候補の広陵(広島)だった。広陵といえば、2年前の秋の明治神宮大会で対戦している。その時、高木は自分と同様に1年生ながら唯一のレギュラーだった中田蓮と親しくなっていた。
「神宮大会の試合後、同じ宿舎だったので、近くのコンビニでバッタリと会ったんです。その時は特に何か話をしたわけではないのですが、その後、自然と連絡を取り合うようになりました」

 組み合わせ抽選会の日、高木が番号を引くと、その隣には「広陵」の名があった。試合の前日、2人は電話でこんな会話をしている。
高木「明日、勝負やな」
中田「ランナーがおらんかったら、真っ直ぐで勝負するから」
高木「OK」

 その場面が訪れたのは、0−0で迎えた3回裏だった。1死無走者で高木に打席がまわってきた。初球、142キロの高めのストレートをファウル。約束通り、中田が真っ向勝負で挑んできたことが嬉しかったのだろう。高木には自然と笑みがこぼれていた。2球目、139キロのストレート。高木との勝負に肩の力が入ったのか、キャッチャーが捕れないほどの暴投となってしまった。今度は中田にも笑みがこぼれた。2人とも、この勝負を思い切り楽しんでいた。

 3球目も外れ、ボールカウントは1ストライク2ボール。しかし、4球目、高木が強振し、2ストライクに追い込まれた。5球目、キャッチャーとサインを交わした中田は1度、首を振った。そして、投げたのはやはりストレート。おそらくキャッチャーからは変化球のサインが出ていたのだろう。それを制してまで、中田はストレート勝負にこだわったのだ。果たして、結果は高木の空振り三振。マウンド上では中田がしてやったりの表情を浮かべていた。

 試合は4回表に広陵が一挙5点を奪って、主導権を握った。だが、高知も負けてはいなかった。5回まで無得点に封じられていたが、6回裏、先頭打者の高木が四球で出塁した。さらに中田の牽制悪送球で高木は三進し、チャンスをつくった。そして次打者のタイムリーで高木がホームイン。高知はその後、2点を奪い、この回一挙3点を返した。さらに7回裏、先頭打者がストレートの四球で出塁した。ここで中田はマウンドを降り、ファーストへと下がった。高木と中田との対戦は、ここで幕を閉じた。2打数1安打1奪三振1四球。2人の勝負は五分に終わった。

 高知は7回裏、代わったピッチャーからも2点を奪い、試合を振り出しに戻した。なおも1死三塁。ここでベンチが動いた。島田監督から出されたのはスクイズのサインだった。しかし、広陵のバッテリーは予想していたのだろう。1ストライクノーボールからワンバウンド気味の変化球を投げ、バッターから空振りを奪うと、慌てることなくランナーを三本間で挟み、アウトにした。
「ここで一気に逆転できていれば、流れは完全に僕たちに来ていたと思うのですが……」
同点にとどめた広陵は8回表、すぐさま反撃し、3点を勝ち越した。結局、高知は8、9回は無得点に終わり、初戦敗退。高木にとって“3度目の正直”は訪れなかった。

 それでも「1度は甲子園で勝ちたいという気持ちはありましたが、でも、力を出し切っての敗戦だったので、試合後はやりきった感がありました」と高木。荷物をまとめ、甲子園を去る高木の顔には涙はなかった。

 あらから4年の歳月が過ぎた。今年の高校野球も数々のドラマを生み出し、お茶の間をわかせた。毎年行われる夏の風物詩が終わりを告げ、少しずつ季節は秋へと向かっている。その秋には、高木の大学野球の集大成となるリーグ戦が控えている。果たして、高木は4年前同様に達成感とともに大学野球にピリオドを打つことができるのか。9月8日、六大学野球秋季リーグが開幕する――。

(おわり)

高木悠貴(たかぎ・はるき)
1990年10月5日、高知県高知市生まれ。小学生で野球を始め、中学からは内野手として活躍。高知高校では1年秋からレギュラーとなり、2年春・夏、3年夏と3度、甲子園に出場した。卒業後、法政大学へ進学。1年秋に右肩を故障し、長いリハビリ生活を経て、3年秋にリーグ戦デビュー。今年の春季リーグ戦ではチームトップの打率3割1分4厘をマークした。









(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから