西本恵「カープの考古学」第95回 <浮沈を占う3年目のシーズン編その5/マニラ・オールスターズ来日の傍らでカープ2度目の2連勝>

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 カープ創設3年目のシーズンはなかなか勝てず、勝率2割台前半の体たらく状態で、カープファンにとっては、青息吐息のシーズン序盤戦だった。

 

 この年の4月、前年のサンフランシスコ平和条約の成立により、アメリカからの支配状態から脱し、日本は独立国家として歩みはじめた。自由に野球を楽しみ、観戦ができる日々となり、プロ野球の興行に加え、アマチュア野球も盛り上がってきていた。しかし、戦後の支配下が終わったからといって、すべてが自由になったわけでは決してない。戦後処理なるものも同時並行的に行われていた時期でもあるのだ。

 

 とりわけ、第二次世界大戦は終結したものの、対戦した国家間における占領の恨みを買う日本であった。中でも、フィリピンとの国交には大きな課題が残されていた。

<日本との戦争状態終結はまだいつになるかわからない状態にあるのだ>(「中国新聞」昭和27年5月26日)

 

 当然ながら、軍艦や飛行機による戦いが収まっていない訳ではなかった。要はフィリピン国会において、上院が戦争終結に関する法案を可決したとしても、下院によっての賛成が得られず、再度の審議となっていた。“日本許すまじ”の思いは、種火として残っていたのだ。

 

<対日戦争状態終結宣言の決議案は通常議会最終の五月二十二日、上院で可決された>(「中国新聞」昭和27年5月25日)

 ところが、上院下院の二院制をとるフィリピンにあって、下院ではこうだ。

<午前零時の幕切れまでに承認を与えず>(同前)

 

 その結果、対日戦争状態終結宣言が、この時点で可決されることはなかった。つまりフィリピンは、戦争は終わっていないと主張したのだ。

 

 ところが——。

 あらゆる国交は閉ざされたままであったが、フィリピンと日本との野球による交流は行われたのである。それはカープが、ちょうど2割台の勝率に苦しむ5、6月戦線のさなかのことだ。5月3日の毎日新聞にはこうある。

<日本社会人野球協会ならびに本社(毎日新聞)ではNBO(全米野球協会)フィリピン支部との間にかねてから日比親善野球について話し合いをすすめていましたが、過日来日したNBOフィリピン支部長O・スパン氏と正式契約を取り交わし、親善野球をくりひろげることになりました(一部略)>

 

マニラ・オールスターズの全国横断

 発表後、フィリピン社会人野球チーム「マニラ・オールスターズ」が、5月22日午後10時半の羽田着のフィリピン航空P・A・L機で到着した。5月24日に第一戦(※)の全東京(社会人)後、5月25日にはマニラ・オールスターズと全日本(社会人)の第二戦が行われた。マニラ軍は左腕L・オンジニアンの威力のある速球と、アウトコースのシュートを使い分け、5対3で勝ちを収めている。

 翌日5月26日の第三戦、マニラ・オールスターズは社会人野球の大昭和製紙と対戦。2対11で完敗を喫している。

 

 さらに記録をたどる。

 5月29日の第五戦、小倉にてマニラ・オールスターズは全九州(※社会人チーム)と対戦。左腕のヴィライ投手が3回から打ち込まれ、全九州の打棒が止まず、1対10と2戦連続で大敗した。

 

 5月30日の第六戦、山口県防府市での試合で、マニラ・オールスターズは、地元・協和発酵と対戦し、5対3で勝利している。

 6月1日、全大阪との試合は4対9で敗れた。

 6月3日は、全東海との試合では打ち合いの末、7対8で競り負けた。

 6月5日、静岡市で再び大昭和製紙と対戦し、1対5と敗れ、さらにこの日、日本軽金属とも対戦し、3対14で大敗。

 

 6月7日は、大学野球の早稲田大学と神宮球場で対戦し、2対7で負けた。翌8日の慶応大学戦は、雨で9日に順延されたが、さらに雨にたたられ、再度の順延となる。

 6月10日は、千葉県銚子市において、早稲田との再戦で、4回まで1対2と拮抗したが、5回以降、早稲田の怒涛の攻撃に遭い、1対11の完敗だった。

 6月12日、後楽園球場で、東京六大学野球選抜チームと対戦し、1対6で敗れた。

 6月13日、同じく後楽園球場で、慶応を対戦し、4対7で敗れた。全国を横断しながらの試合はさぞ盛り上がったことであろう。

 

 しかし、なぜ戦争終結宣言が可決されない中で野球の試合なのか——。

 この時の報道では「日比親善野球大会」と銘打って伝えられた。この親善試合は、「対日戦争状態終結宣言の決議案」が上院では可決されても、下院で見送られることになった影響はなかったように推察されるが、詳細は謎も多い。ただ、戦前には巨人軍がマニラ遠征をするなど、日本野球との接点も少なからずあった。

 

 一方のカープは、このマニラ・オールスターズとの直接対戦はなかった。しかし、この約1年7カ月後、昭和29年初頭に日比賠償協定が進む中、カープはフィリピンのマニラ市まで遠征を行い、社会人野球チームと対戦し、大学生チームとのエキシビションマッチも行っている。昭和29年のカープのフィリピン遠征の詳細については、後のカープの考古学で記すとする。

 

中国新聞のカープ愛

 日本の独立後、国交正常化していない国との交流をも行った日本ノンプロ、大学野球チームだったが、肝心のカープの試合は、6月24日の後楽園球場での国鉄戦が雨で流れ、翌25日には、国鉄とのダブルヘッダーが行われた。第一試合、カープは大田垣喜夫を先発に立て、国鉄の金田正一と投げ合ったものの5対6で惜敗。第二試合は5対2でカープが勝利を収めた。特に1対2のビハインドで迎えた7回表の攻撃で、連投した金田を捉え、一挙4点をあげたことが勝敗を分けた。6月3勝目、今シーズン11勝目となった。

 

 翌日の国鉄戦に、前日の勢いが乗り移ったのか、前日負けている大田垣が再登板、好投して8対4で勝ち切った。開幕カードで引き分けを挟んだ2連勝をして以来の、連勝であった。

 

 しかし、6月末までの勝ち星は12勝と、到底プロとはいえない成績にファンはがっかりであったろう。こうした中で中国新聞の記事にも、タイトルなしの結果のみの記事が並ぶようになった。“結果が出ないのならば、書かないゾ”と言っているかのような誌面となっているのは、気のせいであろうか。

 

 傍らでは、大々的に誌面を刷新することにもなった。これまで4ページであった中国新聞は<本紙朝刊を六ページに>(「中国新聞」昭和27年6月25日)とページ数を増やした。

 

 独立後の日本の国際的な躍進、さらに国力の充実を狙い、社会情勢の刻々と変化する中、新聞にニュース量が求められてきていた。ニュースの完全収録を目指すと読者サービスの姿勢を打ち出したのだ。しかし、カープの6月戦線の勝率が2割そこそことあって誌面が減じられてもしかたのないことだったろう。

 

 苦しむカープに、一番の味方となる中国新聞の冷静さは愛情故だろう。シーズンは中盤戦となる夏に入るが、救世主は現れるのであろうか、次回のカープの考古学にご期待あれ。

 

※5月24日の第一戦:「毎日新聞」「朝日新聞」「中国新聞」に記載なし。前後の記事から旅疲れもあり、マニラ側の大敗だったと推察される。

 

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和27年5月25日、26日)

「毎日新聞」(昭和27年5月3日、17日、27日、28日、31日、6月4日、6日、8日、9日、13日、14日)

「朝日新聞」(昭和27年5月12日、26日、27日、6月3日、6日、8日、9日、11日)

 

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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