岩村明憲(福島レッドホープス会長兼GM/愛媛県宇和島市出身)特別編第3回「MLBで躍動」
第1回WBCの準決勝。失点率により首の皮一枚つながった日本は、1次ラウンドA組、2次ラウンド1組で2度負けていた韓国と対戦し、代打で起用された福留孝介の劇的な3ランもあり、6対0で勝利した。

決勝の相手はキューバ。この大一番では、岩村明憲の代役・今江敏晃も活躍した。
1回、2点をリードし、なおも2死満塁。ここで打席に立った今江はセンター前に弾き返し、日本はこの回、一挙4点を奪った。
最終スコアは10対6。ケガにより欠場を余儀なくされた岩村には、世界一になった喜びと少しばかりの悔しさが残った。
2006年のシーズン、145試合にフル出場し、打率3割1分1厘、32本塁打、77打点、8盗塁と好成績を残し、4年ぶりにベストナイン(サード)に選出された岩村は、シーズン終了後、ポスティングシステムを利用して、MLBア・リーグ東地区に属するタンパベイ・デビルレイズ(現レイズ)と契約した。愛媛県出身者としては、初のメジャーリーガーだった。
翌07年、MLB1年目のシーズンで、岩村は123試合に出場し、打率2割8分5厘をマークした。サードの守備も安定していた。移籍金が安価な455万ドル(当時約5億円)とあって、球団には「リーズナブル(お得)な買い物だった」と言われた。
監督のジョー・マドンから監督室に呼ばれたのは、シーズンも終わりに近付いたある日だった。
「アキ、セカンドはできるか?」
「できなくはないけど、不安しかない」
「じゃあ、とりあえずやってくれ」
「球団史上最高の一打」
指揮官の要請を受け、最後の1試合だけセカンドのポジションに就き、無難にこなした。マドンは06年にドラフト1巡目で獲得し、マイナーリーグで好成績を残していたエバン・ロンゴリアをサードに据えたいと考えていたのだ。
結論から言えば、このコンバートは吉と出た。岩村にとっては「中学以来のセカンド」だったが、このポジションを10年以上守っているかのような安定感で、内野を引き締めた。
打ってはリードオフマン。152試合に出場し、打率2割7分4厘、6本塁打、48打点を記録した。
こうした岩村の活躍もあり、このシーズン、レイズは97勝65敗で初の地区優勝を果たす。
レイズの勢いは止まらない。地区シリーズでは、シカゴ・ホワイトソックスを3勝1敗で撃破した。2戦目、岩村が本拠地で放った逆転2ランは、チームメイトのカール・クロフォードをして「今日のアキのホームランは球団史上最高の一打」と語らしめるほど完璧なものだった。
リーグチャンピオンシップは、ワイルドカードから勝ち上がってきたボストン・レッドソックスとの対決に。3勝3敗で迎えたゲームセブン。本拠地のトロピカーナ・フィールドには、“万年最下位”のチームの晴れ姿を一目見ようと、4万473人の観客で埋まった。
ゲームは3対1で9回へ。2死一塁でジェド・ラウリーが放った打球は、セカンド岩村の目の前、アンツーカー付近でポンとはねた。
これを処理した岩村は、ショートにトスせず、自らの足で二塁ベースを踏み、ゲームセット。人知れずウイニングボールをズボンのポケットにねじ込んだ。
そして夢のワールドシリーズへ。フィラデルフィア・フィリーズに1勝4敗で敗れたものの、岩村には生涯忘れられないシーズンとなった。
(第4回につづく)
<岩村明憲(いわむら・あきのり)プロフィール>
1979年2月9日、愛媛県宇和島市出身。宇和島東高から97年ドラフト2位でヤクルトへ入団。00年にはサードのレギュラーとなり、ゴールデングラブ賞を初受賞。翌年、ヤクルトの日本一に貢献した。04年に自己最多の44本塁打をマークしたのを皮切りに、3年連続で打率3割、30本塁打以上を記録。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回の実績を残し、06年オフにポスティングシステムでメジャーリーグに挑戦、デビルレイズ(現レイズ)に移籍した。慣れないセカンドへのコンバートを経験しながら、08年には1番打者としてチームを牽引。チームを球団創設初のリーグ優勝に導いた。WBCでは06年、09年と日本代表のメンバーとして連覇を果たしている。10年はパイレーツへ移籍したが、シーズン途中に戦力外通告を受け、9月にアスレチックスへ。11年からは5年ぶりに日本球界に復帰し、楽天でプレー。13年からの2年間は古巣ヤクルトに在籍した。15年からは独立リーグのBCリーグの福島ホープス(現・福島レッドホープス)の選手兼任監督に就任。17年限りで現役引退。現在は会長兼GM。NPB通算成績は打率2割9分、193本塁打、625打点。メジャーでの通算成績は打率2割6分7厘、16本塁打、117打点。右投げ左打ち。
(文/二宮清純)

