「彼しかいない。人間的な魅力も評価されたんじゃないでしょうか」。そう語るのは来春のWBCで3連覇を目指す野球日本代表「侍ジャパン」監督に就任することが内定した山本浩二の“育ての親”である松永怜一である。
 松永は山本が法大に入学した当時の野球部監督。広島・廿日市高時代、「エースで4番」だった山本に打撃に専念することを命じた。「将来のことを考えた時、投手としては限界があると。ただ打撃には非凡なものを感じました」。プロで首位打者1回、ホームラン王4回、打点王3回。松永との出会いがなければ、山本のプロでの成功はなかっただろう。

 2007年に野球殿堂入りを果たした松永の最大の功績は大学生7人、社会人13人からなる日本代表を率いてのロサンゼルス五輪優勝である。周知のように当時の野球は公開競技。注目度は決して高くはなかった。

 しかし、松永には秘められたミッションがあった。
「海外に門戸を閉ざしたままのプロ野球には絶望を感じていた。だったら、こちら(アマチュア)から打って出ようじゃないかと。チームは未熟でも未来に挑戦する喜びとやり甲斐を私は感じていました。ここから野球の国際化が始まるのだと……」。松永が懸命に“坂の上の雲”を追いかけたのは、28年前のことだ。

 野球界での指導力を評価され、シドニー五輪後にはJOC選手強化本部長に就任した。野球界からは初めての抜擢だった。「当時、JOCにおいて野球は新参者。陸連や水連の力が強く、“なぜ野球界から強化本部長を出すんだ”という陰口が聞こえてきました。しかし、批判されればされるほど燃えるのが私の性格なんです。アテネ五輪で日本は史上最多(当時)のメダル数(37)を獲得した。その時、私はもう辞めていましたが、JOCの竹田恆和会長から“松永さんが引いてくれたラインのおかげです”と言われた時は胸がジンときました」

 現在はJOC名誉委員。公開競技ではあったが、初めて金メダルを獲得したロス五輪代表の延長線上に侍ジャパンがあると私は考える。「世界を相手に戦う愛弟子に伝えたいことは?」と問うと気骨の80歳は言下に答えた。「功は部下に、責は己に。この気持ちさえ忘れなければ……」

<この原稿は12年10月3日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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