国外で日本人と話をすると、会話の内容が妙に濃くなり、距離がすぐに縮まることがある。元日本代表のフィジカルコーチを務めた、里内猛さんともそんな出会いだった。今から2年前――ワールドカップイヤーの2010年のことだ。
(写真:ジーコと里内猛は強い絆で結ばれている)
 年明けから、ぼくは通訳のエジソン土井氏を通じて、ギリシアにいたジーコに連絡を取っていた。前年の9月10日、ジーコはCSKAモスクワと契約を解除。その約1週間後にギリシアのオリンピアコスの監督に就任していた。この話をエジソンから聞いた里内さんが僕に、「ジーコと会いたいので同行できないだろうか」という連絡をしてきた。里内さんについてはエジソンからもジーコからも聞いていたので、「是非、一緒に行きましょう」と返事をした。ぼくたちは2月5日発のシンガポール航空を押さえた。アテネで7日の試合を観てからジーコに同地で話を聞く予定だった。

 オリンピアコスは、欧州チャンピオンズリーグでアーセナル(英国)、スタンダール・リエージュ(ベルギー)、AZ(オランダ)のグループHを2位で勝ち抜き、決勝トーナメントに進出していた。ジーコはチャンピオンズリーグに出られるクラブにこだわっていただけに、面白い話が聞けるだろうと楽しみにしていた。

 ところが――。オリンピアコスは1月17日に行われた国内リーグでカバラとの試合に敗れた。試合後、サポーターが暴れ、スタジアムを破壊。ピッチに投げつけられた破片が選手にあたるという騒ぎになった。チャンピオンズリーグでは結果を残していたものの、この敗戦で国内リーグでは首位のパナシナイコスに勝ち点7を離されることになったからだ。

 試合後、サポーターはジーコの解任を求め、18日、クラブは突然の解任を彼に言い渡した――。ぼくは地中海に面した風光明媚なギリシアを訪れるのは初めてだったのにと、泣く泣く予定をキャンセルしなければならなかった。そして、ジーコと連絡を取り、3月にリオで会うことに変更した。
(写真:地球の裏側、ブラジルの3月は真夏に当たる。リオでは強い太陽が照りつけていた)

 ブラジルに行く際、ぼくは世界一周チケットを利用することが多い。この時も上海で別の取材を済ませてから、サンフランシスコ経由でロサンゼルス、そしてリオ・デ・ジャネイロに入った。日本から直接来る里内さんたちとは、リオのホテルで合流することになった。 里内さんと会ってすぐに、柔らかな関西弁を話す彼をジーコが気に入った理由がなんとなく分かった。がっちりとした厚みのある身体の上に、真っ黒に日焼けした顔が乗っていた。その顔の黒さは、現場に立つことを無上の喜びとしている人間の証だった。年下のぼくに対しても、偉ぶったところは一切なかった。サッカーのことを話し出すと止まらない。そして、貪欲だった。
「今年はどこのチームとの契約もないので、1年ほどブラジルで勉強しようと思っているんです」
 すでに日本を代表するフィジカルコーチの一人でありながら、まだ学びたいと考えていたのだ。

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 里内猛は、1957年1月に滋賀県の守山市で生まれた。小学生の時から遊びでボールを蹴ったりしていた。しかし、現在のようにクラブチームは存在しておらず、本格的にサッカーをするようになったのは、地元の守山中学校に進学してからのことだ。中学1年時の担任教師がサッカー部の顧問だった。教員チームの選手でもあった彼に、強く誘われたのだ。
 始めてみると、サッカーの楽しさに取り憑かれた。早朝から授業の前に練習、昼休みも練習、放課後は夜遅くまでボールを追いかけるようになった。中学3年時には、県大会で優勝、近畿大会でも3位に入った。

 高校は、滋賀県の強豪校である甲賀高校(現・水口高校)に進学し、全国高校総体、国民体育大会、全国高校サッカー選手権に同県代表として出場した。大阪経済大学に進んでもサッカーを続けた。だが、当時の関西大学リーグは、大阪商業大学や同志社大学が強く、目立った成績は残せていない。4年の時に関西学生選抜に選ばれ、関東大学選抜と試合をしたことが、大学時代の最大の勲章である。

 大学卒業後は住友金属の子会社に就職し、住友金属蹴球団(現鹿島)の一員となった。当時、住友金属は日本サッカーリーグ(JSL)2部に所属していた。里内の仕事は輸送関係で、午後2時まで働いた後にサッカーの練習が始まった。
 住友金属蹴球団の選手は、住友金属の社員と、里内のように子会社の社員の2種類に分かれていた。里内はサッカー選手として入社したとはいえ、彼の立場はサッカーはあくまでも仕事の“おまけ”だった。社員と比べると待遇に差はあるにしても、会社に残りたければ早くサッカーを辞めて仕事に専念しなければならないというのが、社内の常識だった。里内はサッカーと離れたくないと感じていたが、将来も見えなかった。 

 27才で現役を退き、コーチに就任した。コーチと言っても、ライセンスがある訳ではなかった。年齢を重ねた選手が、年功序列でコーチになっていくに過ぎなかった。後輩に押し出されるように選手からコーチになり、いずれ未練を抱えたままサッカーから離れていく――それが、凡庸な社会人サッカー選手の宿命だった。ただ、里内はいい時代に居合わせた。JSLはプロ化を模索していた。そのため、里内はジーコと出会うことになったのだ。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。最新刊は『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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