人生とは自分が強く望んで前へ進むというよりも、背中を押されて歩き出すことが多いものだ。里内猛の人生は、千葉県の検見川で行われたJSL(日本サッカーリーグ)主催の指導者講習にたまたま参加したことで大きく変わることになった。指導者講習を担当していたのは、ドイツ人のデットマール・クラマーだった。
(写真:25才、現役時代の里内)
 クラマーは1925年4月、西ドイツのドルトムントで生まれている。49年からドイツ協会西部地区主任コーチを務め、64年にドイツ協会ナショナル・コーチ、67年から74年まで国際サッカー連盟(FIFA)コーチを務めている。その間、日本代表を60年から4年間指導した。64年東京五輪のベスト8、68年メキシコ五輪の銅メダル獲得はクラマーの功績でもある。

 身振り手振りで熱弁する、はげ上がった頭の小柄な白人に里内は圧倒された。
――タイムアップの笛は次の試合のキックオフの笛である。
――意志のあるところに必ず道は開ける。
――いい結果を得ようとすれば、いい準備が必要になる。
――見ること自体は目である。しかし、それを判断したり、感じたりするのは精神である。
 ありふれた言葉も、彼の詩人のような語り口に乗ると輝いているかのように聞こえた。

 クラマーは具体的な練習内容を教え、長期的な計画の必要性を説いた。里内は27歳からコーチとなっていたが、指導者としての覚悟がないことを痛感した。自分は腰掛けのコーチに過ぎなかったのだ。1週間ほどの研修中、里内は必死でメモをとった。

 研修後もクラマーとの縁は続いた。
 88年にもクラマーは再び来日している。これはFIFA主催のユースアカデミーだった。全国から育成年代の指導者が二十数人集められた。このアカデミーは、芝生のピッチ、宿泊施設がある住友金属のグラウンドで行なわれた。里内は直前に参加者に欠員が出たため、急遽、参加することになったのだ。

 クラマーは里内のことを覚えていた。今度は前回よりも時間に余裕があり、里内は自分が抱えている疑問をクラマーにぶつけた。日本では苦しい練習に耐えることで、根性がつき、上手くなると考えられていた。“精神論”は時に必要である。ただ、サッカーには自由な発想が必要だろう、と――。クラマーは、里内の意見を正しいと認めてくれた。

 里内はこれからもサッカーと関わりたいと漠然と考えていた。しかし、きちんとした将来像は描けていなかった。里内は住友金属の子会社である鹿島運輸の社員だった。今後、住友金属蹴球団は住友金属の正社員を中心に運営して行くことになるだろう。そうなった時、自分の立場はどうなるのか。クラマーの姿を見て、里内は彼のような指導者になりたいと思った。ただ、どのように行動すればいいのか分からなかった。


 同時期、日本サッカー界ではプロ化の胎動が始まっていた。
 88年、JSL内に活性化委員会が設置されている。日本のサッカー界は長く低迷していた。当時、最も重視されていたのはオリンピックだったが、68年のメキシコ大会以降、出場できていなかった。活性化委員会が始動する前年に行われたソウル大会のアジア予選では、最終予選で中国に敗れて2位となり、出場権を逃している。

 マイナー競技にとってオリンピックに出られるかどうかというのは死活問題である。大会に出場すれば、少なくとも4年に1回は世の中から注目を集めることができる。当時はまだマイナー競技にすぎなかったサッカーはその機会を逸し続けていたため、JSLの集客は伸びない。観客が少なければ、試合の水準は下がる。そしてさらに観客は減るという悪循環だった。

 こうした悪循環を根本から変えるにはプロ化しかなかった。ただ、あくまでJSLの中心は実業団チームであり、「プロリーグ設立」を謳うと親会社からの反発が考えられた。そのため、88年にまとめられた第二次活性化委員会の答申書には、「スペシャルリーグ」を目指すと表記されている。プロ化という文言は避けたものの、これは実質的なプロリーグである。

 翌89年6月、さらに踏み込んでプロリーグ検討委員会が設置された。この年の10月には、JSLに所属していた1部と2部の全チームにプロリーグへの参加意志を問うアンケートが配布された。 里内の所属する住友金属蹴球団も参加希望の手を挙げていた。しかし、その可能性は低かった。

 初年度は8つのクラブで始めることが濃厚だった。20団体が参加表明をしており、既存のクラブの戦力、実績を考えればその顔ぶれはほぼ固まっていた。2部の住友金属は他のチームに比べると明らかに見劣りがした。
 よく知られているように、後にJリーグのチェアマンとなる川淵三郎は、「住金が加入できる確率は限りなくゼロに近く、99・9999パーセント駄目だ」と発言したこともあった。
 それでも、住友金属の人間たちは諦めなかった。

 住友金属のある茨城県鹿島郡鹿島町(現鹿嶋市)は、鹿島神宮の門前町として発達した。町の東側は太平洋に面しており、砂丘を掘り込んで作られた鹿島港がある。鹿島臨海工業地帯のための、原材料の輸入、製品の輸出に特化した工業港である。
 鹿島町は、工場が立ち並び無機質な印象があった。夜になると暴走族が走り回り、ささくれだった雰囲気となる、魅力に乏しい地方都市である。
(写真:住友金属のJリーグ入りには、屋根付きのサッカー専用スタジアムが必要だった)

 80年代半ば以降、バブル経済により、日本には浮かれた空気が流れていた。大学を卒業したのに、そんな田舎町に赴任したくない――理系の大卒学生の本音である。住友金属にとって、有能な人材を集めるためにも魅力的な街にすることは至上命題だった。そのため、プロのサッカークラブを作りたいと考えていたのだ。

 Jリーグ入りのために、住友金属の人間たちは様々な人に相談して、2つの手を打った。1つは、“屋根付きのサッカー専用スタジアムの建設”である。そしてスタジアム建設を“ハード”とするならば、“ソフト”の整備も必要だった。
 それがピッチ内外に影響力のある誰もが知る著名な外国人選手の招聘――そして、里内の人生を変えた2人目の男、ジーコが日本にやってきた。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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