「彼には青年将校のような清々しさがあるね」。言葉の主は日本サッカー協会最高顧問である川淵三郎。初の年間王者に輝いたサンフレッチェ広島の指揮官・森保一に向けられたものだ。
 Jリーグがスタートして20年目の今季、初の元日本人Jリーガー優勝監督が誕生した。それを受けて、Jリーグの生みの親である川淵は感慨深げに続けた。「それが地道な努力を重ねてきた森保だったことに価値がある」

 長崎出身ながら高校は名門・国見ではなく長崎日大。マツダの採用枠は5人で、森保は6人目の内定者。つまり“補欠合格”。森保にとっての幸運はマツダのコーチをしていたハンス・オフトに見染められたことだ。「しつこいし、自分の仕事をしっかりしている」。オフトの代表監督就任に伴い、代表に取り立てられた。

 いかに彼が無名だったかについては名前に関するエピソードひとつで事足りる。ある試合では「モリ・ホイチ」と紹介され、あろうことか92年に地元・広島で開催されたアジア杯では観客席から「モリホ!」という声が飛んだ。同級生の北澤豪からは「キミ、ポジションどこだっけ?」と真顔で聞かれた。

 川淵ですら森保に対する知識は持ち合わせていなかった。「オフトが(代表に)つれてくるまで、こんな選手がいるなんて知らなかった。今でいうボランチのはしり。相手の攻撃の芽を摘み、次につなげる。オフトジャパンは彼なしには存在しなかった」

 彼を初めて取材した時のことはよく覚えている。撮影用にリフティングを依頼すると、カメラマンがシャッターを切る前にボールは床ではねた。「サッカースクールに行くと、よく子供たちに笑われるんですよ」。バツが悪そうにそう言った。

 失敗する指導者の特徴として、自らの色を出そうと意識し過ぎるあまり、前任者の否定から始める者がいる。過去は負債なのか。一方で前例踏襲の檻から抜け出せない者がいる。未来がそんなに不安なのか。何を残し、何を変えるか。森保はミハイロ・ペトロヴィッチ前監督の攻撃サッカーを受け継いだ上で守備の意識をチームに浸透させた。

 チームを生命体と考えるならば選手は細胞だ。細胞の躍動なくして生命体の活性化はありえない。それを見越した森保のマネージには絶妙の塩梅があった。これもJリーグ20年目の見事な果実のひとつと言っていいだろう。

<この原稿は12年11月28日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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