1993年のJリーグ創設時から存在する10クラブの中で3冠タイトルに縁がないのはサンフレッチェ広島だけだった。
 その広島が創設21年目で年間優勝を達成した。指揮官はOBの元日本代表MF森保一。前任のミハイロ・ペトロヴィッチ監督が推進した攻撃サッカーに組織的守備を浸透させた。
「ミシャさん(ペトロヴィッチ)のサッカーをよりシンプルにし、守備ではファースト・ディフェンダーの役割を明確にした。優勝は選手やスタッフのお陰」
 感無量といった面持ちで、そう語った。

 森保を日本代表に取り立てたのは、元日本代表監督のハンス・オフトである。マツダのコーチ時代から目を付けていた。
 オフトが森保に命じたのは「ダーティ・ワーク」だった。

 当時の日本代表の司令塔はラモス瑠偉。彼が前線に上がり、薄くなった中盤を埋めるのが森保の主な役割だった。
 本人は語ったものだ。

「僕の場合、そんなに身体能力は高くない。走力にしろジャンプ力にしろ並以下です。技術ひとつとってみても、他人よりすぐれているところはほとんどない。なにしろ、サッカースクールに行くとミスして子供たちに笑われるくらいですから。
 だからこそ、事前に頭を使って、試合の流れを読まないといけない。相手に技術を見せびらかすよりも、味方がプレーしやすいように速く、正確なパスを出すことの方が大切なんです。いわゆるシンキング・スピード。これが遅くなると、僕の居場所はなくなってしまう」

 その頃から「この選手は指導者向きだな」と思っていた。
「天才と天才肌は違うんです。天才でもないのに、自分のことを天才だと思っている選手がたくさんいる。サッカーは自分で考え、自分で創造するスポーツ。それができないと、この世界では生き残っていけない」
 森保はそう語っていた。

 聞けば、元日本人Jリーガー監督のJ1優勝は史上初だとか。まだ44歳。将来の日本代表監督だって夢ではあるまい。

<この原稿は2012年12月17日号の『週刊大衆』に掲載されたものです>
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