「大学で現役生活が終わってもいいかな」。大学3年の秋、俊野達彦はこう思っていた。周囲が就職活動を始め、自分も「それが自然」だと考えるようになっていた。大阪商業大学バスケットボール部の先輩で、卒業後もプロを目指してトレーニングを積んでいる選手もいた。「先輩たちを見ていて(現役を続けるのは)大変というのは知っていましたし……自分はそこまでしなくてもいいかなと」。2010年3月、俊野は大学を卒業し、あまりにあっけなく、そして自然に、バスケット生活にピリオドを打った。
 再燃したプロ願望

 就職する――。父・正彦は息子の決断に驚きはしなかった。
「正直、プロで通用する器ではないと思っていました」
 俊野がインカレで関東の大学と対戦した際、「西と東はレベルが全然違うなぁ」と弱音ともとれる言葉を聞いていたのだ。また、体格とポジションへの不安もあった。俊野はチームの事情で、大学ではシューティングガード(SG)としてプレイすることが多かった。試合でマッチアップするのは身長185センチの俊野より大きな選手ばかり。アウトサイドのシュートを覚えたとはいえ、パワーや高さでどうしても劣る部分があった。そんな状況もあって、正彦は「上のレベルで活躍するのは無理やろな」と感じていたのだ。

 俊野は就職した埼玉県の米菓メーカーで、自社商品の営業マンとして働き始めた。そして、入社して半年が経った頃、久しぶりにバスケットがやりたくなった。大学4年の秋に引退してから約1年が経っていた。彼が所属したのが父親に紹介してもらった“草加クラブ”だった。実は、草加クラブの監督は父親と友人関係にあり、「どこかバスケットができる場所はないか?」と相談したところ、「それなら」と入団が決まったのだ。

 草加クラブでプレイすることは楽しかった。「チームのメンバーもみんないい人たちでした」と居心地の良さを感じていた。だが、草加クラブでプレイすればするほど、俊野の中にある思いが強くなっていった。「本気でやりたい」――。自分自身の気持ちを再確認した俊野はもう一度、プロを目指すことを決意した。

 彼が選択したのは日本初のプロリーグであるbjリーグへの挑戦だった。bjリーグでプロになるためには、2つの方法がある。ひとつはリーグ主催の合同トライアウト(1次選考を経て最終選考)に参加し、ドラフト会議で指名されること。もうひとつはチームトライアウトを受けてドラフト外でチームと契約することである。11年1月、俊野はまずbjリーグの合同トライアウトを受験した。「とりあえずどんなものか受けてみよう」と思って受けた結果は、1次選考で不合格。その後は複数の球団のチームトライアウトも受験したが、練習生としてとしか評価されなかった。約1年のブランクがあり、十分な練習もこなせていない選手がプロになれるほど、現実は甘くはなかった。それでも、「プロになりたい」という思いは消えなかった。

 果たした父との約束

 全てのチームトライアウトを受け終わった頃、俊野は父親に再びプロを目指していることを伝えた。草加クラブの監督から「(俊野は)体が戻ったら上のレベルでも通用すると思う」と伝えられていた正彦は「半端じゃない覚悟でやるんやったらええやろう」と息子の決断を認めた。ただし、条件があった。

 翌年の合同トライアウトに向け、俊野は一刻も早く退職し、バスケットに専念しようと考えていた。そんな息子に父はこう告げた。
「どんなに忙しいなかでも、ちゃんとやれるところを見せないと認めん」
 不景気が叫ばれて久しい今日、職を失うことはリスクが大きい。プロへの道が閉ざされた時に再就職できる保証はどこにもない。厳しい言葉の中には「本人には悪いけど、保険をかけさせたわけです」という親心も含まれていた。

 父の言葉を受け、俊野は11年の7月から仕事をしながらトレーニングを重ねた。そして、日程に余裕が出れば愛媛の実家に帰省し、5つ年下の弟との1対1の練習に励んだ。弟も愛媛県の国体選抜に選ばれる実力者であり、大学を卒業してからの対戦では俊野が負けることもあった。しかし、俊野は対戦を重ねるごとに弟を圧倒していった。

「あ、コイツ、何か変わってきたな……」
 スピード、フィジカルの強さ……正彦は帰ってくるたびに、息子が成長していることを感じた。仕事をしながらも必死に努力を続けている証だった。条件提示から3カ月、正彦は「もう、バスケットに専念していいよ。その代わり、ダメやったら、もう1回仕事を探せ」と息子の背中を押した。
 俊野は9月末で米菓メーカーを退職した。そして、翌年のトライアウトに向けて、bjリーグの“千葉ジェッツ”のサテライトチームである“千葉エクスドリームス”に入団。両親からも「1年間だけ」という約束で金銭面の支援を受けられることになり、バスケットに専念できる環境が整った。

 自分らしく臨んだトライアウト

 チームに入って、まず取り組んだのは基礎体力のアップだ。現在の体重80キロも細い部類に入るが、当時はさらに10キロほど軽かった。外国人選手が多く活躍するbjリーグでプレイするにはフィジカル面の強化が不可欠と感じていた。加えて、「ベースの部分でのレベルがプロの選手よりかなり劣っている」と考えていた俊野は、ハンドリングやドリブル、シュート練習など、基礎の部分を徹底的に鍛え直した。

 エクスドリームスには俊野と同じくプロを目指している選手たちもいた。現在、千葉ジェッツでプレイする一色翔太や狩俣昌也である。そうしたプロという同じ目標を持っている選手たちと競い合うことで自身に何が足りないのかを把握し、その後の練習に生かすサイクルができた。

 そして12年5月30日、合同トライアウト1次選考の日を迎えた。1次選考は大阪、東京、仙台の3会場で実施され、俊野は大阪の選考会に参加した。大阪会場には59名の選手が集い、下は16歳から上は33歳までさまざまな選手がプロを目指した。選考会は実戦形式で体力とスキルの2分野で評価される。テストを受ける上で、彼は何を考えていたのか。
「とにかく自分のプレイを出して評価してもらうしかない。一生懸命走ってディフェンスして、チャンスがあったらちゃんとシュートを打つ。いつもどおりのプレイをして、それで落ちたらしょうがないし、受かれば自信を持って次(最終選考)もやればいい。そう思っていました」

 果たして俊野は大阪会場の合格者10名のうちのひとりに選ばれた。1次選考に参加した選手は仙台、東京会場と合わせて総勢192名いたが、合格したのはわずか38名。これにbjリーグと所属チームの推薦者を含めた58名が最終選考でプロ入りをかけてアピールすることになった。

 迎えた6月11日の最終選考会、この大一番で俊野は意外にも「リラックスしていた」という。
「受ける前は、“どうせドラフトは引っかからんかな”と思っていたので。いいプレイをすれば、その後のチームトライアウトを受けに行った時に覚えておいてもらえるぐらいに考えていました」
 スピードに乗ったドリブル、積極的なディフェンス、そしてアウトサイドからのシュート……1次選考と同様に、自分のプレイで各チーム関係者にアピールした。やれることはやった。あとはドラフト会議を待つのみ。そこで指名されなくてもチームトライアウトがある。もし、チームトライアウトを受けてもダメなら――。俊野は「どことも契約できなかったらもうやめよう」と心に決めていた。だが、彼はチームトライアウトを受けることもバスケットをやめることにもならなかった。約1週間後に開催されたドラフトで、俊野は指名を受けた。“群馬クレインサンダーズ”。2012−2013シーズンからbjリーグに参入する新規チームだった。

(つづく)

俊野達彦(としの・たつひこ)プロフィール>
1988年1月18日、愛媛県生まれ。雄新中―新田高―大商大―草加クラブ―千葉エクスドリームス。小学3年時にバスケットボールを始める。新田高時代は1年時から全国大会に出場。小中高ともに愛媛県の優秀選手に選出。大学は関西大学バスケット界の名門・大商大に進学したが、卒業後は就職し、第一線から離れた。しかし、プロになる夢を諦めきれず、2011年のbjリーグ合同トライアウトやチームトライアウトを受験。同年に入団した千葉エクスドリームスで練習を重ね、今年6月の合同トライアウト最終選考に合格。同月、ドラフト会議で群馬から2位指名を受けた。現在、新人ながら全試合に出場を続けている。高い身体能力と鋭いドライブが武器。身長185センチ、80キロ。背番号33。



(鈴木友多)
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