第293回 手応えを得たアメリカ遠征 ~ホルヘ・ヒラノVol.28~

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 1986年4月、ボリビアのボリーバルに加入したホルヘ・ヒラノに対する冷ややかな目は、当時の新聞から伝わってくる。

 

 ボリビアの地元紙『HOY』の4月14日付では、一面を割いてヒラノのインタビューが掲載されている。タイトルは「LA PIMTA ES LO DE MENOS(見た目なんて大したことはない)」。その上に「ホルヘ・ヒラノ 1・65、60キロ」と書かれている。

 

 

 記事はこんな風に始まっている。

<私服姿の彼は、サッカー選手には見えない。本当にそうなのかと疑いたくなるほどだ。敢えて言うならば、軽量級のボクサー、あるいは武道家のような雰囲気。切れ長の目をした小柄な男は、——これは決して悪い意味ではない—真面目で内気だ。高山病による頭痛に悩まされながら、質問に答えていく>

 

 意地悪な質問もしている。

<「その小柄な身体で苦労したことはある?」と訊ねると「もちろん、あった」と頷き、こう続ける。

「監督が私の見た目を問題にしたこともあった。細くて痩せているので、サッカーができないと思ったようだ。それを監督から直接言われたことはなく、記者から聞かされたんだ。ぼくは自分の唯一の方法、プレーで彼らを納得させてきた」>(※訳・筆者)

 

 小柄で華奢に見えるヒラノを記者は不安視していたのだ。ヒラノが言うように、身体の小ささで弾かれたことはあった。ヒラノは一見大人しそうに見えるが、負けん気が強い。闘志を内に秘めるタイプである。彼は先入観をプレーで乗り越えていた。

 

 ただ、ボリーバル加入後、プレシーズンマッチのリトラル戦、そしてウルグアイのナシオナル戦でヒラノは高山病に悩まされ、動きに精彩を欠いていたことも事実である。

 

 会長のマリオ・メルカードの指示で、ヒラノの契約を指揮した当時副会長のギド・ロアイサ・マリアカはこう言う。

 

 実力を認めさせたヒラノ

 

「コーキ(ヒラノの愛称)を獲得したのは、監督だったバラック・モイゼスの意向だった。彼が着いたばかりの頃、彼はラ・パスの高地に慣れていなかった。通常、高地に慣れるには数週間かかる。彼本来の持ち味であるスピードを出す準備ができていなかった。だから最初、期待が大きかったが故にサポーターはコーキに失望した」

 

 ギド・ロアイサは1944年にラ・パスで生まれた。アルゼンチンのラ・プラタ大学で学んだエンジニアとして実業界に入った。82年、マリオ・メルカードから誘われボリーバルの経営陣に加わっていた。

 

 ボリーバルは、ナシオナルとの親善試合の後、アメリカ遠征に出かけている。この遠征にはギドも同行した。

 

「前年度のリーグ優勝旅行として我々はニューヨークに行った。アメリカではアマチュアチームと3試合している。コーキはそこで素晴らしいプレーを見せた。我々は彼の才能をそこで確信した」

 

 ヒラノもこの遠征でチームにおける自分の立場ができたと振り返る。

「ぼくはピッチの中で常にゴールがどこにあるのか意識している。ボールを受けたとき、顔を上げてゴールの位置を確かめる必要がない。頭の中にゴールの場所を感じているんだ。その感覚を周囲の選手に理解してもらう必要がある」

 

 どのタイミングでボールが欲しいのか、“出し手”との意思疎通である。ヒラノはスピードのあるウイングプレーヤーである。ゼロコンマ何秒の違い、ボールを受ける場所が大きな違いとなる。このアメリカ遠征で、ヒラノは手応えを感じたという。

 

 ギドがバラックにこう言ったことをヒラノは良く覚えている。

 なぜ、君がコーキをこのクラブに連れてきたいか分かったよ、と。

 

 得意のウイングで出場

 

 シーズンの始まりは、リベルタドーレス杯だった。

 

 この年のリベルタドーレス杯は、5つのグループに、それぞれ2カ国のクラブを割り当てていた。ボリーバルは、同じボリビアのホルヘ・ウィステルマン、ペルーのウニベルシタリオ、ウニベルシダ・テクニカ・デ・カハマルカと同組だった。上位1チームのみが準決勝のグループ2に進出する。

 

 ボリーバルの初戦は、4月27日に行われるクルービ・ホルヘ・ウィステルマン戦だった。

 

 ホルヘ・ウィステルマンは1949年に設立された、ボリビアのコチャバンバを本拠地とするクラブである。

 

 コチャバンバはアンデス山脈の盆地にあり、標高2574メートル。ラ・パスよりは“低地”だ。スペインの植民地時代、ポトシ銀山への食料を供給する街として発展した、ボリビア第3の都市である。

 

 クルービ・ホルヘ・ウィスルテルマンは、元々航空会社に勤務している人間たちが立ち上げたクラブだった。ボリビア初の民間パイロット、ホルヘ・ウィステルマンの名前をとっている。ホルヘ・ウィステルマンは前年度、ボリーバルに続くリーグ2位で、リベルタドレーレス杯の出場権を得ていた。

 

 この試合でボリーバルの監督、バラック・モイゼスは4-3-3のシステムを採用した。一番前の左サイドにヒラノが入った。

 

(つづく)

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