県内最多となる春夏合わせて甲子園出場42回を誇る徳島商業高校。甲子園では1947年の春に優勝、58年の夏には準優勝している。過去、プロ野球選手も数多く輩出した県内随一の名門だ。中学3年時に主力のひとりとしてチームを県総体優勝に導いた杉本裕太郎は、その徳島商を当然のように選んだ……のではなかった。当初、彼は実家に程近い小松島高校に進学しようと思っていたという。小松島はその年(2006)の春、01年春、03年夏に続いての甲子園出場を果たしており、21世紀に入って力をつけてきていた。練習を見学した際に感じた明るいチームの雰囲気も、杉本の心をくすぐった。一緒に見学した親友の高島佑も同じ気持ちだった。2人は小松島への進学を決めた。ところが――。
「オレは徳商に行く」
 そう口にしたのはもう一人の親友、原一輝だった。
「えっ!?」
 初めて聞く原の言葉に、杉本と高島は驚きを隠せなかった。
「僕と高島が小松島に見学に行った時、なぜか原だけが行かなかったんです。『なんで、行かないのかな』と不思議に思っていましたが、まさか徳商を考えていたとは思ってもいませんでした」

 杉本と高島は、原が本気で甲子園を狙っているのだと理解した。だが、原が徳島商を志望したのは、それだけの理由ではなかった。原は驚くべき言葉を口にした。
「2人とは違う高校に行きたかったんです」
 杉本と高島は、当然のように3人で同じ高校に行き、甲子園を目指すつもりでいた。ところが、原だけは一人、違っていたのだ。その理由とは――。

「中学3年の県総体で優勝することができたのは、杉本と高島のおかげです。県内ではほとんど打たれたことがなかったんです。彼らは同世代で一番のピッチャーでした。そんな2人のボールをキャッチャーとして受けながら、『打席に立ったら、もっとすごく感じるんだろうな』と思っていたんです。彼らとは小学校の頃からチームメイトで、一度も対戦したことがなかった。それが僕にとって一番の心残りでした。だから高校では敵として真剣勝負をしたいなと思ったんです」

 だが、杉本と高島はそんな原の気持ちは全く知らなかった。「徳商は甲子園に一番近いし、原が行くなら……」と2人はあっさりと進路を変更した。2人にとっては、「3人で甲子園に行く」ことが一番重要だったのだ。かくして翌春、3人はそろって県内随一の強豪、徳島商野球部の門を叩いたのである。

 気持ちが呼び起こした逆転勝利

 徳島商の野球部は予想以上に厳しかった。それは練習に限ったことではなかった。「上下関係が厳しくて、3年生が怖かったですね。なんだかオーラがあって、いつもにらまれている感じでした」と杉本が言えば、原は「日常生活についても厳しかったですね。例えば授業態度。朝から夜遅くまで練習で、睡眠時間はほとんどありませんでしたが、授業中に寝るのは絶対に禁止。体力的にきつかったです」と当時を振り返った。

「なんでこんなに厳しいねん」
「辞めたいなぁ」
 練習後、寮に帰ると、3人で愚痴を言い合うことも少なくなかった。しかし、本気で辞めようと思うことはなかった。「3人で甲子園に行く」。その気持ちが揺らぐことはなかったのだ。指揮官からの総体優勝バッテリーへの期待は大きく、3人はすぐにベンチ入りを果たした。

 その年の夏、徳島商は2年連続での甲子園出場を決めた。しかし、全国の舞台では初戦敗退。杉本に出場のチャンスは巡ってこなかった。
「本当は代打で出場するはずだったんです。でも、とにかくスタミナがなくて、練習でもいつもバテていました。甲子園に入ってからもそれは変わらなくて、『バテているヤツを出すわけにはいかん』と言われてしまったんです」

 新チーム発足後、杉本はバッティングを買われ、外野手としてレギュラーの座を掴んだ。ピッチャーでは2番手として先輩エースの後を担い、チームの主力として活躍した。その年の秋、徳島商は県大会3回戦で生光学園に4−6で敗れ、早々と姿を消した。しかし翌年、春の県大会で準優勝すると、夏の予選では3年連続となる決勝進出を決めた。

 その年の夏、杉本が最も印象に残っているのは、準々決勝だ。相手は、前年秋に敗れた生光学園。序盤から激しい点の取り合いとなり、6回を終えた時点では9−8と生光学園のリードはわずか1点の大接戦だった。ところが、7回表、試合が大きく動いた。生光学園が一挙4点を奪い、リードを5点に広げたのだ。そのまま試合は進み、9回裏に突入した。強打を誇る徳島商も万事休すかと思われた。だが、選手たちは諦めてはいなかった。怒涛の連打で一挙5点を奪って試合を振り出しに戻したのだ。試合は延長へと入った。

 結局、軍配が上がったのは徳島商だった。11回裏に犠牲フライでサヨナラ勝ちを収め、準決勝へとコマを進めた。この時の喜びを、杉本は今も鮮明に覚えている。
「1つ上の先輩とはとても仲が良かったんです。だから、絶対に負けたくなかった。5点差となっても、全員、諦めていませんでした。『3年生と甲子園に行きたい』という気持ちが強かったんです。そんなみんなの気持ちが勝利を呼んだんだと思います」

 3日後の準決勝でも延長戦を逆転勝ちした徳島商は、勢いを加速させて決勝の舞台へと乗り込んだ。
「3回戦から3試合連続で逆転で勝ち進んでいたので、チームは押せ押せムード。完全に流れは自分たちに来ていると感じていました」
 甲子園はもう目の前まで来ていた。

 まさかの完敗に流した涙

 決勝の相手は鳴門工だった。2001年から5年連続で甲子園に出場し、02年春には準優勝、02、05年の夏はべスト8に進出するほどの強豪だ。だが、その年は2年生が主体で、キャプテンを務めた田中勇次(明治大)によれば、監督からは「史上最弱」とまで言われていたという。実際、前年秋は県大会初戦敗退、春は準々決勝で徳島商と対戦し、2−9で7回コールド負けを喫していたのだ。徳島商の勝利は揺るぎないものと思われていた。杉本もまた優勝を信じて疑わなかった。

 だが、勝負はやはりやってみなければわからない。準決勝まで平均8得点を誇った徳商打線が、決勝では相手エースに散発4安打に抑え込まれ、無得点に終わったのだ。逆に鳴門工は初回に徳島商の守備の乱れから得たチャンスで先制すると、犠打を絡ませる堅実な攻撃で序盤に3得点。3回以降は追加点を奪うことができなかったが、好調なエースにとっては十分だった。

 0−3。徳島商にとってはまさかの完封負けだった。悔しさに泣きじゃくる3年生の姿に、杉本の目にも涙があふれた。
「自分はそんなに涙もろい方ではないので、泣かないだろうと思っていました。でも、試合後のミーティングで泣いている3年生を見て、勝手に涙が出てきました」

「オマエら、先輩たちの分も頑張って、絶対に甲子園に行かなあかんぞ!」
 監督からの激に、杉本は甲子園への思いを強くしていた。それは、原も高島も同じだったことだろう。半年後、3人のうちの誰かに病魔が襲いかかってくることなど、この時は知る由もなかったのである。 

(第3回につづく)

杉本裕太郎(すぎもと・ゆうたろう)
1991年4月5日、徳島県阿南市生まれ。小学1年の時、「見能林スポーツ少年団」に入り、野球を始める。中学3年時には県総体で優勝、四国総体で4強入りを果たした。徳島商業高では1年春からベンチ入りし、2年秋からエースとして活躍する。青山学院大では野手に転向し、1年春からレギュラーとして試合に出場。2年秋には東都リーグ史上6人目となるサイクル安打を達成し、ベストナインにも選ばれた。189センチ、80キロ。右投右打。









(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから