話している時の表情は柔和で、とても命を懸けて戦っている男とは思えない。だが、グローブをつけると、一転してその目は鋭くなる。プロボクサー・齊藤裕太、25歳。北澤ボクシングジム(以下北澤ジム)所属の2012年スーパーフライ級全日本新人王である。
 神奈川県川崎市に生まれ育ち、中学まで野球少年だった。そんな齊藤がボクシングの魅力に引き込まれたのは00年の秋だった。10月に行なわれたWBA世界ライト級タイトルマッチ、「王者・畑山隆則vs.坂本博之」のテレビ中継に目を奪われた。齊藤が「どちらが倒れてもおかしくなかった。衝撃的でしたね」と振り返るように、試合は序盤から壮絶な打ち合いとなった。そして10R開始直後、畑山がワンツーをさく裂させてKO勝利を収めた。この試合は日本ボクシングコミッション(以下JBC)、日本プロボクシング協会、日本アマチュアボクシング連盟、東京運動記者クラブ・ボクシング分科会の選考によって同年の年間最高試合賞に選ばれている。

 逃げ出した過去

 歴史に残る一戦を目の当たりにした齊藤は、ボクシングのみならず格闘技全般に関心を抱いた。ただ、本人いわく当時は「見る専門」であり、実際にジムや道場に通うことはなかった。高校は通信制の学校に進学し、中学まで続けていた野球も正式な部員とはならずに誘われれば参加する程度。3年時には、地元の金属加工会社「(有)野州精機」でアルバイトとして働き始め、卒業後は正社員として就職した。

 では、齊藤がボクシングを実際に始めたきっかけは何だったのか。それはあるボクサーの自伝との出合いだった。元WBC世界バンタム級王者の辰吉丈一郎が自らを描いた『波瀾万丈』(ベースボール・マガジン社)である。辰吉といえば、ストリートファイト上がりのボクサースタイルで、左手を下げた構えが特徴だ。専門家からはガードの甘さを指摘されたが、それでも強敵を倒していく姿に多くの人が熱狂した。齊藤もそのひとりだった。
「ボクシングは緻密なものだと思っていたのですが、本を読むと辰吉さんは全く違いました。独特の考え方というか……。そこに惹かれて、自分も実際にボクシングをやってみたいと考えるようになりました」

 自宅近くにボクシングジムがあったことも彼の背中を押した。齊藤はプロボクサーになる夢を抱いて18歳でジムの門を叩いた。ところが、である。日々のトレーニングの過酷さは彼の想像をはるかに超えていた。早朝6時のロードワークにはじまり、仕事をこなした後のジムワーク……。齊藤は苦笑を浮かべて「きつかったですね」と当時を振り返った。
「プロテストの話もあったようですが、自分が耐えられませんでした。逃げ出したというかたちになってしまって、申し訳ない気持ちです。今思うと、かなりだらしなかったですね(苦笑)」

 結局、約1年でジムを辞め、齊藤はボクシングから一度、距離を置いた。テレビ中継などでボクシングの試合を見て「ああ、やっぱりいいなぁ」と思いながら、「でも、練習きついしな」と競技再開へはなかなか踏み出せないまま約3年が過ぎた。

 齊藤に転機が訪れたのは09年の8月だった。友人から「ボクシングやらない?」と誘われたのだ。その友人が通っていたのが、現在所属する北澤ジムだった。齊藤もずっと競技を再開したいと思っていただけに、「いいきっかけになりました」と北澤ジムへの入会を決断した。だが、3年前は厳しい練習に耐えられなかった。そのことは頭によぎらなかったのか。
「少しは思いましたね。でも、“今度こそ”という気持ちのほうが強かったんです」

 北澤ジムの環境に魅力を感じていたことも大きかった。以前所属したジムでは本格的にプロを目指す練習生は、齊藤ひとりという状況がほとんどだった。しかし、北澤ジムでは彼の他にもプロを目指す選手が何人もいた。
「ひとりじゃなくて、みんながきつい練習をやっているので、“自分も”と踏ん張れる。昔みたいに逃げ出そうという気持ちにはならなかったですね」
 齊藤のボクシング人生の時計の針が再び動き始めた。

 まさかの不合格

「彼には天性のパンチ力がありました」
 こう語るのは齊藤を入門当初から指導するジムマネージャー(以下GM)の北澤公徳だ。齊藤のハードパンチャーぶりは、現在の7勝のうち6つがKO勝利という戦績を見れば明らかだ。その重いパンチは北澤GMいわく「教えても簡単に打てるものではない」という。
「始めからパンチ力のある選手はだいたい、自分の体重が乗る打ち方を知っているんです。一方で普通の選手に体重の乗る打ち方を教えた場合、その場ではできても、実戦ではうまく打てないことが多いですね。初めて受けた齊藤のパンチは約20年のトレーナー人生で一番重いと感じましたね」

 北澤ジムに入門後は約3年のブランクを考慮しながら、プロテストに向けた練習に取り組んだ。プロテストではヘッドギアなどの防具をつけ、受験者同士が2ラウンドのスパーリングを行う。ワンツーなどのオフェンス技術、パンチをもらわないようにするディフェンス技術、体力などが選考の対象となる。力任せのボクシングや守り一辺倒のスタイルでは合格は難しい。齊藤は走り込みやジャブ、ワンツーという基礎練習を繰り返した。

 また10年1月には高校時代から付き合っていた同級生と入籍。人生のパートナーも得て、一層練習に身が入った。そして同年6月、運命のテスト当日を迎えた。満を持して臨んだが、齊藤はこの試験で不合格となってしまう。
「絶対受かるという自信があったのですが……。もう本当にショックでしたね。でも、このままではダサいし、情けない。次に向けてそれまで以上に練習しようと思いました」

 猛練習を積んだ齊藤は、同月にもう一度プロテストを受けるかジム側から打診され、迷わず受験した。数日後の合否発表当日、彼はいつものように出社した。昼休憩時にJBCのホームページで結果を確認すると合格者名簿の中に自分の名前を見つけた。思わずとったガッツポーズ。努力が実を結んだ瞬間だった。
「本当にやったと。すぐに会社の人にも報告しましたね」
 上司や同僚から祝福の声がかけられた。そして自宅に戻り、妻にも合格したことを告げた。
「“おめでとう”と言ってくれました。その日はちょっと豪華な夕食だったのを覚えています(笑)」
 ボクシングに魅せられて10年、プロボクサー・齊藤裕太が誕生した。

 打ち合い制したデビュー戦

 プロテスト合格から2カ月が過ぎようとしていた8月下旬、電話で北澤鈴春会長から「試合できるか?」という打診を受けた。齊藤は「せっかく試合を組んでもらえるならやりたいです」と答えた。プロデビュー戦は10月2日、試合会場は“聖地”後楽園ホールに決まった。対戦相手もデビュー戦ということだった。

 デビュー戦決定から本番までの約1カ月で、徐々に緊張感が高まり、試合当日にはそれがピークに達した。控室に入ってバンテージを巻き、体を温める。そして、まぶしいくらいのライトが照らされるリング上へ――。齊藤の記憶はここまでしかないという。
「リングに上がったくらいまでしか覚えてないんです。ライトを浴びて、まるで宙に浮いているような感覚でした」

 肝心の試合はというと、開始直後から打ち合いとなった。というより、どちらもディフェンスすることなく、ただお互いのパンチを出しては相手のパンチを喰らっていた。後で映像を見た齊藤も「めちゃくちゃでしたね(苦笑)」と少し驚くほどだった。
そのなかで勝者のコールを受けたのは齊藤だった。1ラウンド1分1秒、彼の右ストレートが相手の顔面を捉え、KO勝利を収めたのである。
「どちらが倒れてもおかしくなかったと思います。そのなかで自分のパンチがたまたま入ったんですが、映像を見て“こんな感じだったんだ”と」

 とても納得のいく内容とは言えないが、デビュー戦を1ラウンドKO勝利で飾れる選手はそうはいない。「自信がついたのでは?」との問いに齊藤は険しい表情でこう答えた。
「デビュー戦のKO勝利で“オレ、強いな”と思ってしまいました。今思えば、あれは“自信”じゃなく“過信”でしたね」
華々しいデビューもつかの間の2戦目(2011年1月31日)で、プロ初黒星を喫したのだ。

 本人が「右を当てることばかり考えていました」と振り返るように、得意の右を何度も繰り出した。しかし、デビュー戦同様に防御もせず、ペース配分やパンチを打ち分けるなどのファイトプランは皆無に等しかった。結果は、1−2の判定負け。試合を組み立てることの重要性を思い知ったという。
「ボクシングをもっと覚えないといけないなと。リード(ジャブ)を打って相手のガードを崩し、確実に右を打ち込む。基本的なことをしないと勝てないと思いました」

 得意の右のために左を打つことの重要性――。プロ初黒星は、齊藤をボクサーとして一皮むけさせるきっかけとなった。

(後編につづく)

齊藤裕太(さいとう・ゆうた)プロフィール>
1987年9月2日、神奈川県生まれ。北澤ボクシングジム所属。階級はスーパーフライ級。18歳の時にボクシングを始める。しかし、練習の厳しさから当時のジムを退会。約3年、ボクシングから離れたが、2009年、友人の誘いで北澤ジムに入門する。10年6月にプロテストに合格し、デビュー戦は1ラウンドKO勝利。12年、2度目の挑戦となった東日本新人王で優勝し、MVPを獲得。同年の全日本新人王も制し、こちらもMVPを受賞した。10年1月に結婚し、現在は一児の父。打たれ強さと破壊力抜群の右が武器。11戦7勝(6KO)3敗1分け。身長167センチ。

(鈴木友多)
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