スペインと日本の明確な違いは「二世」出現の差
フランスとエムバペに何もさせなかったスペインは、アルゼンチンとメッシにも仕事をさせなかった。個か集団か。準決勝の段階で五分に戻った感のあった論争は、最後の最後で「やはり集団か」という方向に大きく傾いた。一時は時代遅れ扱いされることもあったティキタカ的なサッカーだが、再評価の機運が高まっていくことも予想される。
大会のMVPに選ばれたのは、スペインの中盤を支えたロドリだった。78年大会から始まったこの賞において、1得点もあげなかったフィールドプレーヤーが選ばれたのは史上初めてのこと。これほどまでに多くの個、さらにいうならフィニッシャーが輝いた大会で、とことんハンドラーに徹した選手が選ばれたというのもなかなかに興味深い。MVPを決めるFIFAの選考委員、技術委員の間では、指導者の力量をも問われるタイプの選手に対するシンパシーが強かった、ということなのかもしれない。
スペインが圧倒的な強さを見せたことで、今後は日本でも、いかにすればスペインのようなサッカーを体現できるか、といった議論が高まっていくことだろう。方法はもちろん一つではないし、スペインでの正解が日本での正解となるとは限らないところもあるだろうが、個人的には、日本が決定的に劣っている、遅れている部分があるとも感じている。
二世の存在、である。
言うまでもなく、ロドリはバロンドールも獲得したことがある世界的な名手である。では、彼はスペイン史上最高にして唯一無二の存在かと問われれば、大半のバルセロニスタは異論を唱えることだろう。ロドリ以前には、ブスケツがいた。ブスケツ以前には、エルナンデスとアロンソという2人のシャビがいた。2人のシャビ以前には、グアルディオラがいた。
世界の頂点に届かない時代から、中盤の底はスペイン最強のポイントだった。新しい選手が出現するたび、彼らは先達の実績や才能と比較され、磨かれていった。“初代”と呼べそうな選手が見当たらないストライカーと比べると、その差は歴然としている。
幸か不幸か、欧米に比べれば歴史も浅く、未だ高度成長期の真っ只中にある日本サッカーは、出てくる選手、選手がおしなべて“史上最高”という時代が続いている。三笘以前に三笘のような選手はいなかったし、鈴木彩艶以前に彼のようなGKはいなかった。もちろん、当人たちには目標とする存在があったのだろうが、周囲から「あの選手に比べてここが足りない」といった指摘にさらされることは少なかった。
さらにいうなら、二世の出現が取り沙汰されるということは、社会が常に関心を持っているということの表れでもある。カズ二世、中田二世、小野二世が生まれなかった一方で、巨人ファンは数多くの長嶋二世に期待し、阪神ファンはバースの再来を祈り続けた。ゆえに日本の野球は国際競争力を保っている、といっていいかもしれない。
三笘には、いま以上の三笘になってもらわなければならない。無名の若手は、三笘を超えるべく牙を研いでもらわなくては。そしてファンは、メディアは、過去との比較という物差しで才能を見守っていかなければ。
二世が生まれれば三世も生まれる。継承というサークルが生まれれば、その国は強くなる。強くなかった頃のスペインを知る者の一人として、そう確信している。
<この原稿は26年7月23日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>