都市対抗野球の予選が始まる前に、どうしても会っておきたい人物がいた。社会人野球のホンダに所属する西郷泰之である。
 彼は“ミスター社会人”と呼ばれている。
 東京の日本学園高を卒業後、三菱自動車川崎(後に三菱ふそう川崎)に入社し、その後、ホンダに転じた。社会人野球生活は今季で 23年目を迎えた。年齢は40歳。「まさか、この齢まで野球をやるなんて思ってもみませんでした」。やわらかい物腰が重ねた年輪を感じさせた。

 都市対抗野球での通算ホームラン数は 14本。杉山孝一(新日鉄名古屋)と並んでトップタイだ。つまりあと1本打てば、単独トップに躍り出る。

 どうしても会っておきたかった理由は、新記録達成が近付いているからだけではない。彼の野球人生をたどると、2度の分断がある。どのようにして前後をつないだのか、それを知りたかったのだ。

 最初の分断は 2002年、金属バットから木製バットへの移行である。これを機に社会人野球の質はガラッと変わった。バットのどこかに当たりさえすれば飛んでいた打球が、芯でとらえ、しかも押し込まなければ飛距離を稼げなくなってしまったのである。

 西郷は辛抱強く打法改造に取り組み、そして生き残った。 14本のホームランの内訳は金属が5本、木製が9本。この数字がはっきりと進化の跡を物語っている。

 2度目の分断は08年、三菱ふそう川崎の活動休止である。休止と言えば聞こえはいいが、要するに廃部である。業績悪化に伴うコスト削減が理由だった。「燃えろ! 西郷 エンジン機械課」。スタンドに横断幕が掲げられるなど、彼は同僚たちに愛されていた。野球選手は職場の華だった。

 1度は引退を決意したが、ホンダの安藤強監督(当時)に「都市対抗のホームラン記録をうちのチームで塗り替えてくれ」と誘われた。自らを育ててくれた社会人野球に「恩返しをしたい」との思いは誰よりも強い。

 社会人野球には補強選手制度がある。置かれた立場と求められる役割を瞬時に理解する能力がなければ、本人いわく「補弱になる」。ある意味、プロよりも生存が難しいといわれる世界で、22年も生き抜いてこられたこと自体、奇跡と言っていい。新記録達成の暁には国民栄誉賞の向こうを張って、連盟はどうか勤め人の代表に「社会人栄誉賞」を授与して欲しい。

<この原稿は13年4月3日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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