第158回 IBF、WBO加盟で変わりゆく日本ボクシング界
「新垣諭は入れるべきではないか」そんな話をしたのは、もう約四半世紀も前のことである。
1989年当時、私は『ゴング格闘技』(日本スポーツ出版社)誌の副編集長だった。「昭和」から「平成」に元号が移り、それを機に増刊号『昭和の名ボクサー伝説の100人』を編むことになる。
(写真:平成になって以降、日本人世界王者はさらに増え、41名が王座に就いた)
多くのボクシング関係者、記者、識者の意見も参考にして、まずは日本人プロボクサーの中からトップ100人を選ぶことから編集作業を始めた。
世界王座を獲得した選手は、当然、選出することになる。この89年時点で日本ボクシングコミッション(JBC)が認める世界チャンピオンは次の26人。
白井義男、ファイティング原田、海老原博幸、藤猛、沼田義明、小林弘、西城正三、大場政夫、柴田国明、輪島功一、ガッツ石松、大熊正二、花形進、ロイヤル小林、具志堅用高、工藤政志、中島成雄、上原康恒、三原正、渡嘉敷勝男、渡辺二郎、友利正、小林光二、浜田剛史、六車卓也、井岡弘樹。
彼らはすべてWBA(前身のNBAを含む)、WBCが認定する世界チャンピオンである。だが、もうひとり、日本人世界チャンピオンが存在した。84年4月から約1年間、IBF世界バンタム級のチャンピオンベルトを腰に巻いた新垣諭である。
IBFは83年に誕生した(WBA、WBCに続く)ボクシング第3団体。そのIBFの初代バンタム級王座決定戦(84年4月15日)で、新垣はフィリピンのエルマー・マガラーノを8回TKOで破った。王座を1度防衛した後、2度目の防衛戦で、後に3階級制覇を果たす“豪州の英雄”ジェフ・フェネックに9回TKO負け。王座から陥落している。
だが新垣は、JBCが「団体乱立は好ましくない」との理由で、IBFの存在を認めなかったため、日本では世界王者として広く知られることはなかった。メディアもJBCとの敵対を避けて新垣から遠ざかっていた。
そんな状況下で私は「新垣は入れるべきではないか」と提案した。賛同してくれる識者もいたが少数だった。結局、あの時、JBCに認可されていない団体のリングで試合を続けた新垣を100人の中に入れることはできなかった。
そして、この4月1日、JBCはようやくIBFとWBOの2団体へ加盟。「団体乱立は望ましくないが、さらなる日本ボクシング界の発展のためには世界の流れに沿うべき」との判断からだ。好判断ではあるが、決断が遅すぎたと思う。
「IBFやWBOは認めるべきではない。タイトルの価値が下がってしまう」
まだ、そんなことを口にする関係者もいる。これは、大きな間違いだ。世界タイトルの価値は、すでに20年以上も前から下がってしまっていたのである。
世界タイトルが1つしかないのと、3つ4つとあるのでは、その重みは異なる。つまり日本がIBF、WBOを認可しようとしまいと、世界には主要王座が4つあるのだから、WBAのチャンピオンベルトも、WBCのチャンピオンベルトも世界最強の証などではなく、「クォーター・チャンピオン」のマークに過ぎなかったのだ。
日本の歴代世界王者で構成される「プロボクシング・世界チャンピオン会」は、すぐに新垣に招待状を送るべきだろう。そして今後、志高きプロボクサーたちの目標は、「世界チャンピオンになること」ではなく、「4団体のベルトを統一して世界一になること」に変わりゆくのである。
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近藤隆夫(こんどう・たかお)1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等のスポーツ番組でもコメンテーターとして活躍中。著書には『グレイシー一族の真実〜すべては敬愛するエリオのために〜』(文春文庫PLUS)『情熱のサイドスロー〜小林繁物語〜』(竹書房)『キミはもっと速く走れる!』(汐文社)ほか。
連絡先=SLAM JAM(03-3912-8857)