「高校の部活とは違い、多くの決まりがありましたので、最初は戸惑いました」
 川田悠平が法政大学体育会弓道部に入部して、最初にぶつかった試練が「言葉づかい」だった。同部では、年上の人に対してはたとえば「僕」ではなく「自分」、「きのう(昨日)」ではなく「さくじつ」、「今日」ではなく「本日」などと普段とは異なる言い方をしなければならない。「慣れるまでが大変でしたね。ポロッと『僕』と言ってしまって先輩によく叱られました(苦笑)」。この言葉の習得に、川田は時間をずいぶんと要した。
 叱り続けてくれた先輩

 そんな時期に川田はある人物に出会っていた。それは、当時の4年生で主務を務めていた先輩だった。法大では選手が指導陣にアドバイスを求める時もあるが、基本的には4年生が下級生の技術指導を行う。班に分かれて行う練習で、川田はその先輩の班に入った。
「先輩にはよく『大きく引け』とアドバイスされました。その通りにやろうと思うのですが、なかなか的中しない。何度も先輩には叱られましたね(笑)」

 しかし、班別練習になると、川田は進んでその先輩の元で練習した。それは、アドバイスを受けてからの自身の引きに変化を感じていたからだ。
「高校時代は弓をただ引いているだけでした。それが、先輩のアドバイスなどを踏まえて、自分で考えながら引くようにしたところ、8月の合宿から的中が出始めたんです。やはり、先輩にずっと見ていただいていたことが大きかったと思います」
 こう語る川田の表情には、感謝の念が多分に含まれていた。

 8月の合宿では、ひょんなことからチャンスが訪れた。的中が増え始めた川田を見て、当時の監督に「次が当たったら、団体戦のメンバーも考えてやるよ」と冗談交じりに言われたのだ。果たして、川田は次の射を的中させ、“賭け”に勝った。そして、団体戦のメンバーだったある選手の的中が落ちていたこともあり、彼は9月からの東京都学生リーグのメンバーに選出された。

 そのチャンスを川田は逃さなかった。リーグ第1週(対日本大学)と第2週(対明治大学)でいずれも20射19中という結果を出したのだ。第3週(対慶応義塾大学)も20射17中と好調を維持し、残る最終週も高パフォーマンスが期待されていた。ところが、である。第3週の試合が終わった2日後、川田の体に異変が起こった。喘息の発作を起こしたのだ。
「もともと小児喘息なのですが、高校入学以降は全く発作はありませんでした。それが急に起きてしまって……。苦しみながらも練習は続けたのですが、結局、病院で検査後にそのまま入院となってしまいました(苦笑)」

 結局、最終週の試合には出られず、明治大との優勝決定戦にも出場はかなわなかった。全日本学生弓道大会の出場を逃していた法大は、年末の全日本学生弓道王座決定戦の出場権を得ることができず、川田の大学1年目のシーズンは消化不良のまま幕を閉じた。

 原因不明のスランプ

 せっかく掴んだチャンスも、不本意なかたちで終わった1年目ではあったが、指導陣からの信頼は得ていた。迎えた2年目のシーズンで、川田は公式戦の初戦である6月の全関東学生弓道選手権大会(全関東)から団体戦のメンバーに選ばれたのだ。試合では予選から準決勝までを16射14中の高的中で決勝進出に貢献。決勝(対慶応大)では両校6人の射技を終えて的中が同数(川田は4射皆中)となり、決着は同中競射(※的中が同数の場合に行う延長戦。全関東ではひとり2射)にもつれ込んだ。そこでも川田は2射ともに的中させたものの、チームは9−10で惜敗し、川田にとって大学初タイトル獲得はならなかった。しかし、初優勝を経験したのは、それから間もなくのことだった。

 同月の全日本学生弓道選抜大会(選抜)にもレギュラーとして出場し、予選から決勝までを20射18中という成績で、法大の2連覇に貢献したのだ。全関東に続き結果を出したことで、川田の信頼は揺るぎないものとなったかに思われた。しかし、本人は「実は選抜から少し調子が崩れ始めたと感じていたんです」と当時の状態を明かした。

 指導陣もそれを感じたのか、川田は8月の全日本のメンバーにも登録されたが、試合に出場することはなかった。この時期を境に、川田の的中率はグンと下がっていった。
スランプの状態から抜け出そうと、川田は指導陣や4年生にアドバイスを求めた。しかし、何をしても、状況は一向に好転しなかった。結局、秋のリーグ、王座も不出場に終わった。川田には歯がゆさだけが残った。

「スランプに陥った理由は今考えてもわからないですね」
 そんな川田が、スランプを脱出するために取り組んだのが「矢数をかける」ことだった。矢数とは、文字どおり矢を射る数のこと。頭で考えるよりも、的中する際の感覚を体に思い出させようとしたのだ。川田がとった対策はいわば、原点に立ち返ることだった。王座が終わった12月から3月のオフシーズン、川田は1日平均100本以上を打ち続けた。その努力は、彼を裏切らなかった。

(最終回につづく)

川田悠平(かわた・ゆうへい)プロフィール>
1991年、8月10日、高知県生まれ。岡豊高校進学を機に弓道を始める。高校時代はインターハイに2度、高校選抜に1度出場。09年の新潟国体では遠的で8位、近的では4位入賞を果たした。法大入学後は1年時の後期から団体戦のメンバーに選出。2年時には出場した選抜で同校の2連覇に貢献。昨年は団体戦のレギュラーとして主要大会に出場。選抜3連覇、4年ぶり9度目の全日本制覇を成し遂げた。同年12月1日、法大体育会弓道部の第56代主将に就任。今年は史上初の主要大会5冠を目指す。



(鈴木友多)


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