第296回 三つ巴のリベルタドーレス杯 ~ホルヘ・ヒラノVol.31~
1986年のリベルタドーレス杯の準決勝リーグに進出したボリーバルの初戦の相手はパラグアイのクルービ・オリンピアだった。
オリンピアは1902年に設立されたパラグアイ最古、セロ・ポルテーニョと並ぶ人気クラブである。その成績は名門と呼ぶに相応しい。78年シーズンから83年シーズンまでパラグアイリーグ6連覇、79年シーズンには国内リーグ、リベルタドーレス杯、インテラメリカーナ杯、インターコンチネンタルカップの4冠を達成していた。
9月11日、パラグアイの首都アスンションの国立競技場であるデフェンソーレス・デル・チャコで行われ、ボリーバルは1対3で敗れている。ホルヘ・ヒラノは出場していない。
この5日後の16日、同じスタジアムでオリンピアはコロンビアのアメリカ・デ・カリを迎え、1対1で引き分けている。この試合でアメリカ・デ・カリの1得点を挙げたのはアルゼンチン人フォワードのリカルド・ガレカだった。85年に行われたワールドカップ南米予選のアルゼンチン代表対ペルー代表戦で、同点ゴールを挙げた選手である。この連載で触れたように、彼のゴールでペルー代表はワールドカップ出場権を逃し、プレーオフに回ることになった。
9月20日、ボリーバルはラパスでこのアメリカ・デ・カリと対戦している。
アメリカ・デ・カリはコロンビア第3の都市であるカリを本拠地とするクラブである。1927年設立、コロンビアではミジョナリオス、アトレティコ・ナシオナルと並ぶ人気クラブである。アルゼンチン代表のガレカの他、パラグアイ代表のロベルト・カバーニャスなどの代表クラスを揃え、前年85年のリベルタドーレス杯では準優勝していた。
ロベルト・カバーニャスは61年にパラグアイのピラールというアルゼンチンとの国境の街で生まれた。78年にセロ・ポルテーニョで注目を集め、80年には北米サッカーリーグのニューヨークコスモスに移籍している。
スピードを生かしたプレー
ニューヨークコスモスは、ペレ、フランツ・ベッケンバウワー、カルロス・アルベルトが所属したことで知られる。カバーニャスが移籍した80年シーズン、そして82年シーズンに優勝、83年には得点王とリーグMVPになっている。その後、85年シーズンからアメリカ・デ・カリに移籍していた。ペルー代表が南米予選プレーオフで敗退した86年のメキシコワールドカップに出場、パラグアイ代表のグループリーグ突破に貢献した。
試合はボリーバルのホームスタジアム、エルナンド・シーレスで行われた。監督はモイセス・バラックからホルヘ・C・アベッヘルが引き継いでいた。
アベッヘルはプロフェッショナルなサッカー選手としての経験はない。アルゼンチンの国立体育教育学院を卒業後、フィジカルコーチとしてサッカー界に入った。この経歴から「プロフェッソール(先生)」という渾名がある。それまでアルゼンチンのテンペルレイ、アタランタという小さなクラブの監督経験しかなかった。
後年、地元紙『ラ・ナシオン』のインタビューで6カ月契約であったこと、〈監督としてほとんど実績がなかったにも関わらず雇われることになった〉と語っている。
赤いユニホームを着たアメリカ・デ・カリの選手たちは、大きなコロンビアの国旗を持ちながら入場した。ボリーバルはクラブカラーである薄い水色のユニホームである。観客席には水色の大きな旗が振り回された。
試合が動いたのは後半23分だった。
最終ラインまで下がった右サイドハーフのカルロス・ボルハが右足でサイドチェンジの長いパスを入れた。ヒラノの前のスペースだ。アメリカ・デ・カリの選手はバウンドに一瞬躊躇し、対応が遅れた。ヒラノはそれを見逃さなかった。素早い動き出しでボールを受けるとすぐさま右足を振り抜いた。強いシュートはゴールの中へ。先取点である——。ヒラノらしいスピードを生かしたプレーだった。ボリーバルで本来の存在価値を示した、とも言える。
当時のカリという街
ボリーバルは終了10分前にも1点を追加し、2対0で勝利した。
これでグループBは1勝1分のオリンピアが首位、1勝1敗のボリーバルが続き、1敗1分のアメリカ・デ・カリ。実力が拮抗した三つ巴の闘いだった。
ボリーバルの次の試合は、アウェーでのアメリカ・デ・カリ戦だった。
カリはコロンビアの西に位置する第3の都市だ。年中温暖な気候でサトウキビ栽培、そしてサルサの都として知られる。ただ、この時代、多くの人がカリという地名から連想するのは、麻薬カルテルだろう。コロンビアにはメデジンとカリ、二つの大きなカルテルが存在した。カリ・カルテルは合法的な企業、金融網を組み合わせた〝近代的〟麻薬組織だった。
ラパスからカリの直線距離は約2400キロメートル。直行便はない。ボリーバルは空軍の飛行機を使用することになった。
フィジカルコーチのルイス・オロスコはこう振り返る。
「エンジンが4つ、40人程度が乗れる大きさだった。空軍出身の大統領のルネ・バリエントス・オルトゥーニョが使用していた大統領専用機と同じ形式の機体だった。前方には座席が並んでいて、後ろにはカードゲームができるテーブルと椅子が置いてあった」
軍用機はラパスの国際空港であるエル・アルトから飛び立った。離陸から20分ぐらいした頃、突然、飛行機が激しく揺れ始めた。乱気流の中に入ったようだった。悲鳴を上げて座席にしがみつく選手もいた。
揺れは止まらなかった。
(つづく)
田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)
代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。