巨人・松井秀喜新監督、練習施設や球団事務所訪問 ~プロ野球~
26日、巨人の松井秀喜監督が東京・大手町の球団事務所を訪れ、球団職員やスタッフに就任の挨拶を行なった。この2日前には神奈川・川崎市のジャイアンツ球場を訪問し、施設を見学したほか、一部の選手やスタッフに挨拶を済ませた。52歳の新人監督が、指導を開始する秋季練習に向け、着々と歩みを進めている。

<摩天楼のダグアウト>(後編)
当HP編集長・二宮清純は松井秀喜氏のヤンキース入団が決まった直後に『摩天楼のダグアウト』(ぴあ)という本を上梓しています。今回は、その中から第二章の「松井秀喜 10年の軌跡」の一部を紹介します。
体を軸に鋭く回るイメージ
広角ヒットなら、通算3085安打の張本勲の代名詞であり、近年はイチローがそれを極めた感がある。
しかし、広角ホームランはそうたやすく達成できるシロモノではない。加えていえば透徹した読みと、それを追求せんとする強靭な意志力が要求される。このうちの何かがひとつ欠けても、目標には届かない。それどころかチャレンジする資格すら疑わしくなってくる。この日を境に未踏の頂を極めんとする、松井の壮絶なチャレンジが始まったのである。
ひとつ視点を変えれば、そうせざるをえない状況に松井は追い込まれていた。苦手のインハイを攻略した彼に、胸元へのボールを投げるピッチャーはセ・リーグにはすでにいなくなっていた。それは自殺行為だ。内角を使うにしても、キャッチャーが要求するボールは、そのほとんどがストライクゾーンの外側だった。すなわちブラッシュボールと紙一重の邪悪なボール。これで腰を引かせ、右足の踏み込みを弱めさせる。そして勝負球は一転、外角低め、ボールとなるスライダー、あるいはシンカー――近めのボールを必要以上に意識させることで遠めのボールをより遠くに見せるという投球パターンである。
「松井にはストライクゾーンでは勝負するな」
これが当時の他球団バッテリーの合言葉だった。
遠近法を巧みに利用した、バッターの目を幻惑させるシンプルな投球術だが、これが思いのほか効力を発揮した。ホージーとホームランキングを争った1997年10月、松井はこの攻めに苦しみ、1本も打球をフェンスの向こうに運ぶことができなかった。
「逃げるボールを打ちに行くのではなく、逆らわずに打つ」
それが苦悩にあえぐ松井が導き出した改善策だった。
広角ホームランを自らの理想と定めた松井に私は尋ねた。
「ホームランバッターには必ず言葉がある。極意といってもいい。たとえば王貞治さんは“(ボールを)送り返す”と言った。掛布雅之さんは“潰す”と言った。門田博光さんは“砕く”と言った。あなたの場合はどう?」
キャンプ地・宮崎の宿舎。窓から差し込む西陽が、節くれだった松井の指の関節を、まるでそこだけをクローズアップするように映し出していた。
たどり着いた“コマ打法”
「またその質問ですか?」
松井は薄く笑った。
なぜなら、この質問は2年前の1995年にも試みていたからである。デビュー以来、松井をいわば定点観測していた私は、決まった質問をぶつけ、その答え方の変化を分析することで、成長の判断材料にしようと考えていた。ちなみに、そのときの松井の答えはこうだ。
「特に意識していないが、バットの先端にラケットがついているような感覚、これでピンポン球をたたくと上に跳ね上がるでしょう。あれですよ」
イメージとしては分かるが、理論的にはひどく難解な回答だった。では、なぜ当時、松井がこんな答え方をしたかといえば、文字通り彼は大きな身体上の壁にぶつかっていたのだ。左手の握力、筋力が強すぎて、インパクトの際に手首が返ってしまうのだ。その結果、打球はボテボテのゴロとなった。何とかして打球を上に上げたい。できるならスタンドにまで放り込みたい。その願いが「ラケット」「ピンポン球」という言葉になって表れたのである。
もちろん、1998年春の時点では、このクセはきれいに矯正されていた。松井の言葉を借りれば、「手首を返すのではなく、自然に返る」ように改められていた。どのように矯正したのか私は聞いていないが、バッターボックスでの左手のグリッピングの様子を見て、すぐに理解できた。まるで金魚が口をパクパクさせるように、左手が閉じたり開いたりするのだ。彼はこうして左手に余計な力が入るのを防いでいたのである。
松井はいきなり切り出した。
「コマをイメージするようになったんです」
「コマ?」
「そう、お正月に遊んだでしょう? あのコマ」
「見えないくらい速い回転、ブレない軸……そういうこと?」
「そうです。体を軸にして、鋭く回る。一瞬にして(ピッチャーのボールを)仕留める。これですよ」
確かにこれなら、変化球に泳がされたり、体が前に突っ込むこともない。ボールを追いかけるのではなく、自らのスイングの中でボールを処理していく。フォーム的には動から静へ、そしてマグマの噴火を思わせる一瞬の爆発。それは試行錯誤の末にたどり着いた松井の理想郷だった。
もちろん、言うは易し、行うは難し。このフォーム、すなわち“コマ打法”を実戦で使えるようにするには、並はずれたスイングスピードとそれを支える強靭な筋力が要求される。幸運なことに、それだけの身体資源が松井のゴツイ体の中には、埋まっていた。
「これだけは親に感謝しなければいけませんよね」
照れたように、松井は言った。
メジャーリーグ挑戦を決断
1998年のキャンプで「広角ホームラン」を宣言した松井は左ヒザの痛みに耐えながらも、34本塁打、100打点で二冠王を獲得。その年のオフ、鍋を突っつきながら、松井は言った。
「今年は自信になりました。ケガしてあれ(二冠)ですから。もしケガさえなかったら……」
次に続く言葉を、彼はビールとともに胃に流し込んだ。
広角ホームランの夢――松井が濃密に手応えを感じたであろうシーンが、私の脳裏に刻まれたのは、1998年5月10日のことである。中日のサウスポー野口茂樹の外角高めストレートを左中間方向に叩き込んだのだ。
それまでの松井はこの同期のライバルを苦手としていた。アウトコースいっぱいボールゾーンに流れるスライダーに手を出し、凡打の山を築いていた。しかし、この打席は違った。ボールを追いかけず、自分のスイングの中で敵のウイニング・ショットをきっちり仕留めた。体の軸は1ミリもブレず、コマを思わせる鋭い腰のターンで140キロ台後半のストレートをやすやすと左中間スタンドに弾き返して見せたのである。
「あのホームランがあるから、二冠が獲れたんです。僕の今後の野球人生を考えるとき、間違いなく転機になった一発でしょう」
真摯な口調で松井は語ったものだ。
松井が海を渡ろうと決断したのは、その4年後のことだった。
その決断が悩んだ末のものだったとは、私には思えない。彼は2002年の早い時期から、この日を巨人との決別の日にしようと考えていたはずだ。すなわち、自らのバットでチームを日本一に導き「巨人の4番」としての責任を果たした翌々日の11月1日――エックスデーは最初からこの日をおいて他にはなかった。
松井秀喜は日本シリーズで西武を倒した翌々日、記者会見を開き、正式にメジャーリーグ挑戦を表明した。
「わたくし松井秀喜は、今年取得しましたFA権を行使して、来シーズンよりアメリカ・メジャーリーグでプレーすることを望み、その道を選びました」
思いのほか、淡々とした口調だった。
「わがまま」と言わせてしまう日本球界
続けて、こんなことも言った。
「僕自身、一生懸命自分のわがままにフタをして考えないようにしてきた」
口にした「わがまま」とは、もちろんメジャーリーグ挑戦のこと。自らの夢と「巨人の4番」という責任感。その板挟み。まさしく松井は、この1年間“隠れキリシタン”となってメジャーリーグへの“信仰心”を隠し、ひたすら“ただ栄光のためだけに”戦ってきたのだ。あらためて彼の精神力の強さに感服する。
興味深かったのは、松井のメジャーリーグ挑戦を受けての関係者の反応だ。これが選手と指導者とでは、まるで違っていたのである。
まずは選手サイド。
「松井は日本の選手会を通り越してアメリカのシステムを見ることができるのだから、日本球界のためになる広い知識を持って帰ってきてほしい」(川相昌弘)
「誰でも(メジャーは)行けるというわけじゃないから、松井には頑張ってほしいと思う」(入来祐作)
「巨人は俺に任せておけ」(清原和博)
概ね、好意的だ。しかし、指導者サイドはこの逆だ。
「来年も残ってくれる、ということ以外考えてなかったし、信じていた。大変、残念に思っています」(原辰徳監督)
「松井とはドラフトからのご縁で一心同体でやってきた……。大ショックで明け方まで悶々としていた」(長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督)
なぜ、かくも真っ二つに感想が分かれるのか。監督や現在も指導的立場にある者が、主力の退団による戦力ダウンを憂う気持ちは理解できる。しかし、あまりにも未練がましい。あの天真爛漫な長嶋さんからして「大ショックで明け方まで悶々としていた」などと“らしくない”ことを言うのだ。こっちこそショックだった。
一方、選手たちは前向きであり、川相に至っては実に建設的である。
「僕のわがままを許してもらえるかわからないが、命をかけて頑張りたい」
記者会見の締めくくりに松井が用いた言葉ほど、プレーヤーと首脳陣、あるいは球団、機構の幹部との“温度差”を感じさせるものはなかった。
これから夢を追いかけようとする青年に自らの行為を「わがまま」と言わせてしまう日本球界とは、いったい何なのだろう。長嶋さんとは違う意味で「明け方まで悶々」としてしまった。
(おわり)