インタビュー中、19歳とはおよそ想像がつかないほどの落ち着きぶりを見せていた長岡萌映子。ほとんど表情を崩さなかった彼女が、一度だけ感情を表に出した時があった。彼女が今でも尊敬してやまない恩師の話に及んだ時だった。札幌山の手時代のコーチである上島正光だ。高校3年間、叱られたことは数えきれないほどあるが、褒められた記憶は皆無に等しい。だが、そんな上島に長岡は一度だけ握手を求められたことがあった。
 前年に続いての優勝達成で有終の美を飾った3年時のウインターカップだ。表彰式後、コートを退場しようとした時、出口にあったのは上島の姿だった。近づくと、恩師は黙ったまま右手を長岡の前に差し出した。「お疲れさん、よくやったな」。言葉はなくとも、長岡には恩師の気持ちがわかっていた。

「この話をすると、今でも思い出して泣けてくるんです……(笑)」
 涙をぬぐい、少し恥ずかしそうにしながらも、その表情からは当時の嬉しさがこみ上げてきているのが伝わってきた。
「言葉よりも何よりも、あの時の握手が一番嬉しかった。上島さんの元でバスケットをやってきて、本当に良かったと思えた瞬間でした」
 長岡のバスケット人生は上島を除いて語ることはできない。

 恩師の予想を超えた成長

「たいした活躍はしていなかったですよ。身長は既に176、7センチありましたから、大きいなとは思いました。それだけの印象ですよ」
 上島が長岡のプレーを始めて目にしたのは、彼女が中学2年の時だったという。札幌山の手高校と彼女が通う中学校が近いこともあり、中学生部員が高校の体育館を訪れる機会が度々あったのだ。長岡の第一印象を訊くと、上島は辛口のコメントを述べた後に、「ただね」と続けた。
「シュートの打ち方、パスの感覚を見ても、バスケットのセンスは決して悪くなかった。大きい割には、動きも良かったですしね」

 翌年、中学最後の大会を終えた長岡は、上島に「うちに来ないか」と誘われたという。道内随一の強豪校、全国でもそれまでにインターハイで2度、ウインターカップで1度、3位になっており、実家からも近い。長岡に断る理由はなかった。ちょうどその時、長岡は将来の日本代表の育成を目指すためのプロジェクト「U−15女子トップエンデバー」メンバーに選出されており、10月には東京での合宿を控えていた。そこで上島の勧めもあり、8月からは平日の放課後には高校生に交じって練習に参加した。そこでの指導内容は、彼女にとって初めてのものばかりだった。

「中学時代は、専門的なことはほとんど教わりませんでした。だから、新しいことがどんどんできるようになっていくのが、すごく楽しかったですね。正直、自分では上達しているという実感はあまりなかったのですが、上島コーチに『この1週間で、うまくなっているのがわかる』って言われたんです。その時の私の向上心は、きっとすごかったんでしょうね」

 一方、上島もまた、その時の長岡のことをよく覚えていた。
「大きい割には器用で、練習すればするほど、みるみると巧くなっていきました。新しいことを覚えたいという好奇心があったんでしょうね。何でもチャンレンジしようという気持ちの強さが伝わりました。そういう意味では、巧くなる素質があったと思いますね」

 長岡の成長のスピードは、上島の予想を超えていた。翌年、札幌山の手に入学した長岡は、同年夏のインターハイで全国デビューを果たした。すると、優勝候補の中村学園女子(福岡)との3回戦、長岡はひとりで29得点を叩き出す活躍を見せた。1、2回戦を合わせ、3試合での総得点は90点にも及び、同校の4年ぶりとなるベスト8進出に大きく貢献したのだ。これには上島も驚きを隠せなかった。

「確かに入学して3カ月で、彼女はグンと伸びたんです。特に攻撃に関しては、シューティングの技術をどんどん身に付けていきました。とはいえ、全国であそこまでやってくれるとは、まったく思っていませんでした。何せ1年生ですから、まぁ、気楽にやって欲しいと思っていたんです。こちらが予想していた以上に得点を取ることに意欲的でしたね。改めて『この子は3年間で大きく成長するだろうな』と思いましたよ」

 翌年、札幌山の手はインターハイ、国民体育大会、そしてウインターカップとたて続けに優勝し、道内初の3冠を達成した。2年の長岡は3大会いずれも得点王に輝く活躍。ウインターカップでは決勝史上最多となる1試合50得点を叩き出すなど、3冠の立役者の一人となった。だが、この時のチームは、主将の町田瑠唯(現・富士通レッドウェーブ)をはじめ、3年生がいたからこそであった。そのことを長岡は新チーム結成後、嫌というほど味わうこととなる。

 最後に果たした主将としての責任

 3年生が引退した新チームで、主将に選ばれたのは長岡だった。それは彼女にとって苦しい日々の始まりでもあった。3冠達成時のレギュラーには長岡の他に、もうひとり2年生がいた。佐藤れな(現・桐蔭横浜大)だ。だが、彼女はスリーポインター。つまり、長岡も佐藤も、ポイントゲッターであり、ゲームメークはガードの町田をはじめ、同じくガードの高田沙織(デンソーアイリス)、フォワードの本川紗奈生(現・シャンソンVマジック)の3人が行なっていたのだ。彼女らの穴を埋めるほどの力を持った選手は、新チームにはいなかった。自ずとエースの長岡に頼らざるを得なかったのだ。

 しかも、長岡は日本代表候補として度々、合宿や遠征のために学校を離れなければならなかった。その忙しさは半端ではなかった。合宿を終えて一時帰省し、1日だけ練習に出ると、翌日には遠征に出かけるという過酷なスケジュールをこなしたこともあったという。キャプテンとしてまとめようにも、実際に自分はチームの練習に参加することができない。長岡の苦悩は最後まで続いた。

 そんな彼女が「ようやくキャプテンらしいことができた」と語るのは、最後のウインターカップだ。国体では連覇を果たしたものの、インターハイでは準決勝で涙をのんだ。札幌山の手にとって、それは2年前のウインターカップ以来の敗戦だった。久しぶりに味わった敗戦のショックは大きく、長岡はウインターカップへの思いをさらに強くした。そのウインターカップでは順当に勝ち進み、札幌山の手は前年に歓喜を味わった決勝の舞台に戻ってきた。長岡自身の調子も決して悪くなかった。準々決勝では前年の決勝を上回る51得点をマークするなど、ポイントゲッターとして、主将としてチームを牽引した。

 ところが、迎えた決勝では前半、消極的なプレーが目立ち、最大13点差のビハインドを負った。優勝への思いが強いあまり、長岡は緊張で体が思うように動かない。柱を失ったチームは1Qだけでターンオーバーを9つも犯すなどミスを連発した。だが、長岡は2Qで気持ちを切り替えた。
「1Qではなかなかボールが自分に入らず、イライラしていたのですが、そうではなく、自分がやらなくちゃダメだと思ったんです。自分からボールをもらいにいく、ディフェンスでカバーをする、リバウンドも取る、シュートを決める……とにかく必死にプレーしました」

 主将の必死さがチームの流れを変えた。2Qで逆転すると、3Qでは引き離した。最後の4Qでは相手の激しい追い上げにあうも、札幌山の手がリードを守り抜き、見事に連覇を達成した。試合終了のブザーが鳴ると、長岡はユニフォームで流れ出す涙をぬぐった。
「とにかくホッとしました。前年に続く3冠を期待されていながら、インターハイでは負けてしまった。それがすごく悔しくて、ウインターカップでは絶対に勝ちたかったんです。それなのに、最初は緊張のあまり何もできなかった……。でも、途中からうまく自分自身をコントロールして、プレーでみんなを引っ張ることができたんじゃないかなと思います」

 長岡の孤軍奮闘ぶりを、上島は称えた。
「優勝できるとは思ってもいませんでした。長岡がいなければ、ベスト8にも入っていなかったかもしれません。ひとりでチームを引っ張らなければいけない中、よくやりましたよ。最後の握手は特に意味はありません。『頑張ったな』と、それだけです」
 そして、こう続けた。
「長岡の一番の才能は気持ちの強さです。上のレベルにいけばいくほど、彼女自身も成長しようとする。その向上心の強さは、天性のものですよ」

 強さを再確認したシャンソン戦

 昨年4月、長岡は富士通レッドウェーブに入団した。1年目から彼女を指導しているのが、2012−13シーズンからヘッドコーチに就任した藪内夏美だ。言うまでもなく、高校時代の長岡の活躍を知っていた藪内は、WJBL(バスケットボール女子日本リーグ)1年目で彼女がどれくらいやってくれるのか、非常に楽しみにしていたという。実際、長岡の活躍は藪内の予想を上回っていた。
「期待以上に活躍してくれた、というのが率直な感想です。レベルが上がれば、当たりも厳しくなりますし、それだけ体力も消耗します。でも、彼女はその当たりを嫌がらず、逆に自分から向かっていく姿勢が見えました。それに、得点への嗅覚力が鋭いですね。シュートを打てると思った瞬間には、既にアクションを起こしている。だからチャンスでしっかりと得点することができるんだと思います」

 それでも徐々に相手に自分のプレーが読まれていることに、長岡は悩み始めた。自分自身にストレスを感じていることは、藪内にもわかっていた。藪内は「読まれてもいいし、自分のやりたいことをやりなさい。考えて足を止めるよりも、オフェンスファウルをもらってもいいから、ゴール下で暴れなさい」と発破をかけた。だが、もともと繊細な部分をもつ長岡は、試合を重ねるにつれて自分のプレーに落ち込み、下を向くことも多くなっていった。

 そんな長岡に藪内が変化を感じたのは、後半戦に入ってからのことだった。ある日の練習でのことだった。日ごろからリバウンド練習に励む長岡に、藪内はこんな言葉をかけた。
「萌映子のリバウンド、すごくいいね。そういう姿勢がチームにもいい影響を与えるし、見ているお客さんも力をもらえていると思うよ」
 その日をきっかけに、長岡が下を向くことは少なくなったように、藪内には感じられたという。
「おそらく、たとえ得点を取れなくても、得意のリバウンドを頑張ることで、チームに貢献できるということが、彼女のモチベーションを上げたのだと思います」

 藪内が、印象に残っている長岡のプレーがある。リーグ終盤、昨年12月9日のシャンソン戦だ。この試合、1Qでは富士通が10点差をリードしたものの、2Q以降、シャンソンがジリジリと追い上げ、4Qの残り3分で同点となった。そこからは一進一退の攻防戦が続いた。残り3秒で54−54。両者ともに一歩も譲らない大接戦となった。

 そして最後、富士通はワンチャンスにかけ、長岡にボールを託した。彼女は逃げることなく、果敢にリングに向かっていき、貴重なファウルをもらった。与えられたのは2本のフリースロー。時間はもうない。1本でも決めれば、その時点で富士通の勝利が決まる。否が応にもプレッシャーがかかるこの場面で長岡は見事に2本とも決め、チームに勝利をもたらしたのである。
「ああいう厳しい局面でも、彼女は決して動じなかった。『シュートを入れてやろう』『絶対にファウルをもらってやる』と攻めていく姿を見て、改めて彼女の強さを感じました」

 将来を見据えた絶対条件

 現在、10月の開幕に向けて、長岡はトレーニングに汗を流している。2年目の課題は山積みだ。その中で長岡本人だけでなく、藪内、そして上島の3人がそろって口をそろえて挙げたのが、アウトサイドプレー、特にスリーポイントの確率を上げることだ。それは現在のことだけを考えてのことではない。日本女子バスケットボール界の将来をも考えれば、近い将来日本のエースを担うであろう彼女には絶対条件なのだ。上島は早くからそのことを見越しており、高校1年の時から長岡にアウトサイドプレーの重要性を説いていた。

 長岡はこう語る。
「国内ではセンタープレーが通用することもありますが、世界と対戦する時には絶対に通用しない。だからこそ、外のプレーをできるようにして、プレーの幅を広げていきたいと思っています。特に1年目のスリーポイント9本というのは、あまりにも少なすぎる。2年目はもっと打っていきたい」

 それに対して、藪内はさらなる要求を加えた。
「今はある程度フリーの状態で、ゆっくりと打っていますが、これからはターンやフェイントをかけるなどして、クイックネスなスリーポイントも打てるようになると、さらにプレーの幅が広がる。それが全日本でも活きてくると思います」

 北京、ロンドンと2大会連続で五輪出場を逃した日本女子バスケ。16年のリオデジャネイロ出場への使命感を選手たちはひしひしと感じていることだろう。ロンドンのアジア地区予選ではただひとりの高校生として注目を浴びた長岡だが、次はもう中心選手のひとりとなっているはずだ。それだけ責任も大きくなる。目指すはデニック・ローズ(シカゴ・ブルズ)のように、チームを牽引するプレーヤーだ。伸びしろ十分の19歳への期待は膨らむばかりだ。

(おわり)

長岡萌映子(ながおか・もえこ)
1993年12月29日、北海道出身。小学2年からバスケットボールを始め、札幌山の手高校では、2年時にインターハイ、国民体育大会、ウィンターカップの3冠を達成した。3年時にはキャプテンとしてチームを牽引し、ウインターカップ連覇に導いた。日本代表としても活躍し、高校1年時にはアジアU−16女子選手権準優勝に大きく貢献。2年時にU−17世界選手権で5位となる。3年時には、ロンドン五輪予選を兼ねたアジア選手権に出場した。昨年、富士通レッドウェーブに入団。1年目からレギュラーとして活躍し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。181センチの長身オールラウンダー。


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(文・写真/斎藤寿子)
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