サッカージャーナリスト田村修一の言葉
先日、バロンドールの投票権を持つ唯一の日本人サッカージャーナリストである田村修一さんの遺作「成熟の、その先へ――なぜ日本サッカーは世界の壁を越えられないのか」(日本ビジネスプレス、電子版のみ)が上梓された。
日本代表を率いたフィリップ・トルシエ監督、イビチャ・オシム監督のインタビュー作品でよく知られる彼が、病気と闘いながら日本サッカーへの思いをつづったものである。取材で積み重ねた知見をもとに、日本サッカーに対する提言ともなっている。
ジャーナリスト仲間がフランス語に堪能な彼に敬意をこめて「ムッシュ」と呼ぶその人は2026年7月29日、天国に旅立った。68歳だった。
まだまだ書きたいことがあるんだよ――。
自宅にお見舞いに伺った際、田村さんはそう語っていた。
その声は弱くなっても、強い意志に満ちていた。田村さんを敬愛する後輩ライターの1人として、本書が完成したことを心から嬉しく思う。
田村さんは取材対象者から信頼された。トルシエ監督にも、オシム監督にも。
2021年6月に「凛凛烈烈 日本サッカーの30年~人は、プレーは成熟したのか」(早稲田新書)を出版した際、サッカージャーナリストとしての歩みをインタビューしたことがある。というのも取材対象者への距離の詰め方や取材の仕方なども記しており、「日本サッカーの30年」であるのと同時に「ジャーナリスト田村修一の30年」でもあったからだ。
本書には1994年のアメリカワールドカップでアメリカ代表を率いてラウンド16に導いた名将ボラ・ミルティノビッチ監督をフランス語でインタビューを試みて「うまくいかなかった」というエピソードを紹介していた。
田村さんはこう言った。
「インタビュー記事にはならないレベルだったからね。フランス・フットボール誌のヴァンサン・マシュノーにボラとのインタビューをセッティングしてもらったんだけど、僕のインタビューが終わった後にボラとヴァンサンが雑談をしているわけ。取材対象と対等に話をする関係じゃないと、本音は引き出せないなと2人を見ながら感じた。
本人に対してはインタビューでも敬語になるけど、フランス語にそれはない。ボラに対してもトルシエ、オシムに対しても“タメ口”になる。対等の関係で自分というものをしっかり持たなければならないと感じた。『お前はどう思うんだ?』と聞かれても、答えない日本人って多いでしょ。でもそれじゃ彼らからしたら対等にならないわけで、やっぱり自分の意見や自分の考え方をしっかりと持って同じ目線に立たなきゃいけないと強く思った」
うまくいかなかったことを、次にどう活かしていくか。
サッカーを学び、取材していくなかで自分のサッカー観が見えてくるようになる。田村さんは1998年フランスワールドカップでフランス代表を率いて優勝することになるエメ・ジャケ監督と関係性を築いていく。
「(フランスワールドカップ前まで)試合が終わるたびにフランスメディアのつるし上げにあっていたからね。僕もそのときにいて『いいプレーしていたと思う』と自分の正直な感想を伝えたこともある。アメリカワールドカップでも視察に来ていた彼と空港でばったり会って話をしたこともあった。一度インタビューをやって、ジャケもこいつには話せると思ってくれたんじゃないかな。信頼してもらっていたんじゃないかと個人的には思っている」
その後、トルシエ監督やオシム監督とも深い関係性を築いていく。田村さんだからこそ引き出せる言葉がいくつもあった。アーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督もその1人だった。
監督というものは、メディアに対して一定の線を引くのが言わば普通だ。それでもここまでの信頼関係を築けるのはなぜか、どうしても聞いておきたかった。
「正直であることかな。正直に話すというのは、フランス人の特徴でもあるんだよね。プライベートのことも全然隠さずにオープンにするから、何でも話せる関係になる。だから僕も日本人相手には話さないことも、何でも話す。お互いに何でも話せるような関係性なら、相手も“コイツは話せるヤツだな”と思うから」
トルシエ氏が日本代表監督就任当初、候補となる選手リストを本人から頼まれて作成したというエピソードもある。監督とジャーナリストの立場を超え、2人は真の友人であった。関係性はその後もずっと続いた。
自宅にはお見舞いを受けたトルシエ氏から贈られた1本のワインがテーブルの上に置かれてあった。病を克服して、一緒にグラスを傾けよう――。そんなやり取りが、心に聞こえてきた。田村さんもその日が来ることを願ったに違いない。
虚勢を張らない、嘘をつかない、自分を隠さない。人間としての器が、とてつもなく大きい人だった。田村さんの作品には何よりサッカーに対する愛が詰まっていた。今一度、田村さんの言葉をしっかりとかみ締めたいと思う。