中日を終えた七月場所。綱取りを狙う大関稀勢の里を筆頭に関脇の豪栄道、妙義龍と、栃煌山雄一郎と同学年の力士が三役に顔を揃えている。この世代は三役以降にも東前頭2枚目の栃煌山をはじめ、将来を有望視される力士が虎視眈々と番付上位を狙っており、相撲界豊作の年と言っていいだろう。「誰にも負けちゃダメですけど、同年代はやっぱり気合が入ります」と、栃煌山も闘志を燃やす。中でも、豪栄道とは小学生時代からの宿敵である。「やっぱり負けたくないし、意識はしますね」と語る栃煌山が、豪栄道と初めて対戦したのは、小学4年の時の全国大会だ。自分より小さい相手に、栃煌山は“勝てるだろう”と高をくくっていた。しかし、軍配は豪栄道に上がった。翌年のわんぱく相撲では、1回戦で対戦。今度は「強いと分かっていた」と油断はしなかった。だが、またしても相手の軍門に下った。一方の豪栄道はそのまま全国の頂点まで登り詰めた。しかし、中学時代は栃煌山が全国制覇を成し遂げ、意地を見せている。2人は切磋琢磨しながら、互いの相撲道を究めていった。
 2002年に栃煌山が入学した明徳義塾高校は、全国屈指の相撲名門校だ。栃煌山は1年時から団体戦のレギュラーを獲得するなど、即戦力として才能をいかんなく発揮した。実は当初、彼は補欠という位置付けだった。だが春の県大会を前にして、先輩のひとりに親の不幸があり、繰り上がりでメンバー入りを果たしたのだ。栃煌山は、早速掴んだチャンスでその年高校横綱にもなった高知工業3年の森下祐哉(現・土佐豊)に勝利するなど、結果を残した。

 順風満帆に高校生活をスタートさせた栃煌山は、名門校の壁を感じなかった。それは安芸中学時代の経験が大きかったのだろう。厳しい稽古は既に経験していたからだ。明徳のレベルの高さも、中学時代から頻繁に出稽古に来ていたこともあって、「もう体で覚えていました」と、驚きはなかったという。高校時代の稽古で本人の記憶に強く残っているのは、「一番きつかった腕立て伏せ」だ。浜村敏之監督の指示の下、熱が出るほどの猛稽古だったが、それも次第に慣れてくると、肩関節が鍛えられ、それまで脱臼しやすかった肩が負傷することもなくなった。

 強豪校でレギュラーに定着した栃煌山は、団体では2年時に高校総合体育大会(インターハイ)などを経験した。個人では2年時9月の全国高校選抜宇佐大会、3年時には2月の同弘前大会、5月の高校相撲金沢大会と3つの全国大会を制した。加えて、7月の世界ジュニア選手権には重量級で出場し、優勝を成し遂げた。同大会で無差別級を制した豪栄道とともに、団体では日本の5連覇に貢献した。

 ただ強くなるために選んできた道

 中学時代には全国中学体育大会を制しており、中学横綱の称号を得た栃煌山だったが、インターハイで栄冠は掴めず、高校横綱の座にはついに手が届かなった。最高位は2年時の3位。3年時は、2回戦で豪栄道の前に屈した。栃煌山が個人4冠なのに対し、豪栄道はインターハイ、国民体育大会を含む史上2位の11個のタイトルを獲得した。さらに豪栄道は、高校3年の冬には全日本相撲選手権で3位に入る健闘を見せていた。アマチュア時代の対戦成績も通算で3勝7敗と栃煌山が大きく負け越している。すっかり水を空けられた栃煌山だが、師匠の春日野親方(元関脇・栃乃和歌)の評価は違った。「豪栄道は勝つことには長けていたけど、何かもうひとつ足りなかった。どちらかと言えば、魅力を感じたのは栃煌山だったね」
 実は春日野親方は、中学横綱になる前から栃煌山に目をつけていた。「一目瞭然。一目見たら、やっぱり誰でも欲しがるんじゃないかな。体が大きいし、精神的にも前向きな子だった」

 栃煌山が高校3年になる頃には、春日野親方からの熱心な勧誘があった。栃煌山はそれを受け、単身で泊まり込みの稽古に行った。「その時も稽古を一生懸命やろうとしていたよね。強くなろうという意識がすごく感じられた。だから、これはうまくいったらいいところまでいくだろうなと。のびしろも考えると、素材としてはトップクラスだった。この時の高校生の前後5年で考えると、彼は1、2位だろうなと思った」。実際に近くで見てみて、春日野親方はそう確信したという。

 一方の栃煌山も春日野部屋に好感を抱いていた。「師匠とか、親方衆も熱心に指導してくれました。稽古相手もたくさんもいましたし、部屋の雰囲気も良かったんです。もちろん厳しいところは厳しいんですけど、和気あいあいとしているところもあって、すごくいい部屋だなと思いました」

 自らが強くなるための要素が詰まっているような気がした。「まわりの関取が胸を貸してくれて、“ここが悪いからダメなんだよ”などと的確に教えてくれたんです。部屋全体がみんなで強くなろうという雰囲気が伝わってきて、すごく気合いが入るところだなと感じました」

 当然、高校生屈指の逸材を他の部屋も欲しがらないわけはなかった。だが、この時点で栃煌山の考えは固まっていた。「お話もいくつかいただきましたけど、もう気持ちは“春日野部屋に行きたい”となっていましたね」

 進路について母親と話したのも、この頃だった。「自分の好きな道を貫いていくという意味では大変な世界だろうなとは思ったんですけど、大学行くことを踏まえて、どうするかを雄一郎に聞いた時に、“自分は大学に行く4年間がもったいない。だから卒業したらすぐプロに入りたい”と言ったんです。子供が行きたいように進ませてあげようと思っていましたので、“自分で考えたなら、そうしなさい”と言いました」。家族も栃煌山が下した決断の背中を押した。

 逸材に違わぬ出世街道

 晴れて憧れの角界入りを果たした栃煌山。四股名は関取になるまで本名でいくと決め、「影山」で臨んだ。入門したばかりの頃は、パワーはあったが基礎的な部分はまだ不十分で、荒削りだった。「幕下の先輩など、稽古していても全然勝てない人がいっぱいいました。兄弟子からも“今の相撲じゃ勝てないよ”と、よく言われました。それでもっともっと前へ出ようと思ったんです。元々、前に出る相撲だったのですが、入門してから、おっつけ(相手の差しを封じるため、自分の肘を脇につけること)を教わりました。もちろん稽古中は師匠とか関取衆が教えてくれるのですが、晩御飯を食べた後にも、兄弟子の人たちに“摺り足のかたちから悪い”と言われて、摺り足の稽古にも毎日付き合ってくれました。それを覚えていくうちに、武器になってきて、いい相撲がとれるようになってきたんです」

 栃煌山は05年一月場所の前相撲で初土俵を踏むと、翌三月場所の東序ノ口31枚目に大相撲デビューを果たした。対戦相手は、奇しくも西序ノ口31枚目の豪栄道。結果は下手投げを食らい、豪栄道が勝ち名乗りを上げた。この場所、豪栄道は7戦全勝で序の口を制し、序二段へと昇進した。敗れた栃煌山も6勝1敗で、序二段へと位を上げた。序二段でも再び合いまみえた両者に「未来の横綱対決」と周囲は期待した。ともに5戦全勝で迎えた一番は、取り直しの末、またしても勝利したのは豪栄道だった。栃煌山は6勝1敗と勝ち越して翌場所は三段目へと上がったが、大相撲の土俵での2つの黒星は宿敵につけられる屈辱だった。

 豪栄道はその後、三段目、幕下と優勝を果たし、出世街道を突き進んでいった。遅れをとった栃煌山だったが、負けじと勝ち越しを続け、豪栄道から2場所遅れて三段目を優勝する。そして歩みを止めずに突き進むと、幕下で豪栄道が2場所連続で負け越して足踏みしている間に、06年の五月場所の番付で追い抜いた。

 順調に番付を上げていく栃煌山。そこに壁はなかったのか。「場所では、思い切り当たって、前へ出ようとしか考えていませんでした。逆にそれが良かったのかもしれないですね」と、本人は振り返る。無欲で臨み、愚直に前へと当たっていった。彼を支えたのはやはり原点の押す相撲だった。

 自信は稽古で培ってきた。幕下に上がった当初は、まわりの兄弟子たちに「オマエは勝ち越せないぞ」と言われ、「“そんなに強いのかな”と、内心はドキドキしていた」という。それでも勝ち星を積み上げていった。
「稽古で関取衆が毎日のように胸を貸してくれたんです。それで強くなっていっている実感はありました。体も大きくなってきていましたし、稽古を積み重ねていくうちに、いけるだろうという気持ちもありました。絶対勝てるっていう自信はなかったですけど、やれることをやろうという気持ちで、その時はやっていましたね」

 06年五月場所で栃煌山は幕下3枚目になり、十両昇進まで手の届く位置まで駆け上がっていた。「相撲は非常に力強かったし、内容的にもいずれ三役は当たり前だっていうぐらいのものだったよ」と、春日野親方もそう振り返るほど、充実した相撲を取っていた。大相撲では、十両以上の力士を関取と呼ぶ。それは番付が絶対の角界において、一人前になったことを意味する。春日野親方も「関取に上げるまでは、こっちの仕事だと思うけど、関取になればもう一人前。十両へ上がるまでが我々の仕事で、あとは自分の努力次第だからね」と語る。そして、栃煌山はこの場所も5勝2敗の好成績を残した。しかし、デビューから8場所連続の勝ち越しを決めた彼を待っていたのは、十両昇進ではなく幕下残留の報だった。

(第4回へつづく)
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栃煌山雄一郎(とちおうざん・ゆういちろう)プロフィール>
1987年3月9日、高知県安芸市生まれ。本名:影山雄一郎。小学校2年で相撲をはじめ、安芸中学校に進学し、3年時には全国大会を制覇した。中学生横綱となり、卒業後の明徳義塾高校では世界ジュニア選手権重量級を制するなど個人4冠を達成し、05年に春日野部屋に入門。05年一月場所で初土俵を踏むと、2年間、一度も負け越すことなく番付を上げた。07年三月場所新入幕、その場所で11勝をあげ、敢闘賞に輝いた。10年の九月場所で自己最高位の関脇に昇進。12年の五月場所では12勝3敗の好成績を収める。優勝決定戦で旭天鵬に敗れ、賜杯にはあと一歩届かなかったが、2度目の敢闘賞を獲得した。同年の九月場所では横綱・白鵬を破り、初金星。東前頭2枚目。通算成績は365勝297敗9休(7月14日時点)。三段目優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞2回、金星1個。



(杉浦泰介)
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