前回紹介した両前肢を失ったウミガメの悠ちゃんに人工義肢を制作するプロジェクトは、ヒレの機能を向上させる段階に入っている。7月中旬には神戸市内の人工海水池で装着実験が行われた。しかし、結果は芳しいものではなかった。せっかく装着したヒレが水の中ですぐに外れてしまったのだ。

「生き物だから、どんどんサイズが大きくなる。ピッタリ体に合ったヒレにするには微調整が難しいですね」
 実験に立ち会った山本化学工業の山本富造社長は失敗の理由をそう説明する。今回の試作品は山本化学工業が製作した人工ヒレや体に装着するジャケットを、骨代わりとなる基礎部分を担当する河村義肢に渡して完成させる流れをとった。ただ、実際の仕上がりを見てみると、基礎部分とヒレ、ジャケットの接着方法にも課題が見つかった。

 今後は反省を踏まえて、両社でそれぞれ改良を重ね、8月中に再びテストを実施する。「人間でも動作解析でたくさんのデータを取って開発の参考にしているように、カメの動きについて、もっとリサーチしたほうがいいかもしれませんね。たとえば健常なカメにも装着させて、動きを阻害していないかチェックするのもひとつの方法でしょう」と山本社長はプランを描く。悠ちゃんが他のウミガメと何ら変わりなく海を泳げる日まで、チャレンジは続いていく。

 実はこの悠ちゃんの人工ヒレに活用されている素材は、4日に閉幕した世界水泳選手権バルセロナ大会で、世界のトップスイマーが着用した水着にも使われている。このコーナーでも何度か取り上げた「S.C.S.(スーパー・コンポジット・スキン)」だ。水中で水をはじくのではなく、親水性を持たせる逆転の発想で摩擦抵抗を限りなく小さくしている。

 今回の世界水泳に合わせ、山本化学工業では素材にさらなる改善を加えた。使用するニット繊維の組み方を変更し、より軽くて薄く、伸びが良くなったのだ。もともと同社の水着素材は着心地の良さを追求してつくられてきたが、これにより体への締めつけ感は一層、緩和され、スイマーのストレスを軽くしている。薄く伸びやすくなった分、素材の接着には工程をひとつ増やし、強度に不安が生じない工夫も施された。

「泳いでいる時に皮膚と水着が一体になる。それが理想ですね」
 山本社長の理想にまた一歩近づいた新素材は、マテュース社のFINA(国際水泳連盟)2013年承認モデル「MERLIN ガイア」など、複数のメーカーの新作水着に採用されている。

 なかでも、「MERLIN ガイア」は既にとてつもない記録達成に貢献している。5月に大阪で開催された日本マスターズ水泳短水路大会において、「MERLIN ガイア」を着用した75歳の大崎喜子さんが、女子400メートル個人メドレー、女子800メートル自由形(いずれも75〜95歳区分)で世界新記録を更新したのだ。しかも、その更新幅がすごい。400メートル個人メドレーでは17秒、800メートル自由形では22秒も記録を塗り替えた(400メートル=7分11秒33、800メートル=12分25秒61)。大崎さんは6月には100メートル自由形でも世界新をマークしている。

「“体が伸びやすくてストローク数が少なくても済む。最高の水着”だとお褒めの言葉をいただきました」と山本社長も笑顔をみせる。大崎さんはメルボルン、ローマ五輪の日本代表だった往年の名選手。1954年から自由形で日本記録を97回も更新した。マスターズの世界に移ってからは、ワールドレコードを200回以上もマークしている超人だ。

 年齢を重ねても衰えない秘訣は、独特な練習方法にあった。一度に長距離のトレーニングはせず、100メートルをコンスタントに泳いでいく。1度、100メートルを泳ぎ終えると心拍数をチェック。心拍数110の状態をキープして再び100メートルを泳ぐ。基本の練習は、この繰り返しだ。もし、心拍数が110を超えた場合は休息をとる。負荷をかけつつも、無理はしない。だからこそ75歳になっても世界のトップでいられるのである。

「大崎さんによると、400メートルや800メートルにエントリーしていても、大会前に、その距離を泳ぐのは1回あるかないかとか。でも、実際の泳ぎを見ていると、長い距離でもスピードが途中でガクンと落ちることはありません。100メートルの積み重ねで最後まで泳ぎ切っている感じがしました」
 山本社長も、その泳ぎには目を丸くさせられた。質の高いトレーニングと、最新技術を駆使した水着素材。両者の融合により、今後も記録更新が大いに期待できそうだ。

 世界的に高齢化が進む中、第一線を退いても、“現役”で競技に親しみたいと考えている人は少なくない。五輪や世界水泳で活躍するトップレベルの選手のみならず、自己記録更新を狙う生涯スイマーにも最良の素材を届ける。その試みを通じて競泳の発展を支えたい――。これが山本化学工業のモットーである。 

 山本化学工業株式会社