選手ではなく「選士」と呼ばれた。「打者は投手の投球を避けてはならない」と主催者側から厳命された。なぜなら「突撃精神に反する」からである。原則として選手交代も認められなかった。例外は選手がケガをした場合のみ。「選手は最後まで死力を尽くして戦え」。それがお上のメッセージだった――。
 今から71年前、昭和17年夏の甲子園の姿だ。早坂隆著『幻の甲子園』(文藝春秋)に詳しい。
 昭和17年といえば、4月にB25 爆撃機による初の本土空襲を受け、6月にはミッドウェー海戦で日本海軍が大敗を喫している。「全国中等学校優勝野球大会」は前年から中断しており、夏の甲子園再開は困難であると思われた。

 ところが、スポーツが「戦意高揚」に役立つと判断した国は、文部省とその外郭団体である大日本学徒体育振興会により大会を主催する。名称は「全国中等学校錬成野球大会」。これまでのように朝日新聞社の主催ではない。ゆえに、この年の大会は高校野球の正史には記載されていない。もちろん、優勝校である徳島商の校名も。

 決勝は四国代表の徳島商と、京滋代表の平安中の間で行なわれ、徳島商が延長11回、8対7でサヨナラ勝ちを収めた。押し出し四球での決着だったため、最後の1球を投じた平安のエース・冨樫淳はマウンドに崩れ落ちたまま、しばらく立ち上がれなかったという。

 過日、戦中の中等野球を知る関根潤三にインタビューしていて当時の話になった。日大三中のエースだった関根の回想。「他校の野球部の多くが休部になる中、“野球を通じて心身を鍛錬する“という校長の方針でうちは活動を継続していました。野球には野球の格好があると言って、兵隊さんのようにゲートルを巻くようなこともしなかった」

 話を優勝校の徳島商に戻そう。優勝盾もカップもなく、形見代わりの表彰状は空襲で校舎とともに焼失してしまった。

「優勝の証拠が欲しい」

 昭和52年夏、優勝時の監督・稲原幸雄が当時の文部大臣・海部俊樹に直談判し、その結果、文相名で記念の盾と賞状が贈られた。しかし、今もって徳島商の名前が歴代の優勝校とともに甲子園球場の外周にあるレリーフに刻まれることはない。明日は68回目の終戦記念日である。

<この原稿は13年8月14日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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