夏の甲子園に出場した福知山成美(京都)のキャプテンの名前が太田幸樹と聞いてピンときた。
「もしかして、あの人の子供では……」

 やはり、そうだった。主に近鉄で活躍した太田幸司の長男だった。
 プロで58勝した太田だが、高校時代のイメージが強過ぎるためか、私たちの世代にとっては、彼は未だに「甲子園のカリスマ」である。

 あれから44年がたつというのに、あの夏の太田の雄姿は少しも色褪せない。その後、江川卓、荒木大輔、桑田真澄、松坂大輔、斎藤佑樹……と甲子園を沸かせるスター投手はたくさん現れたが、それでもナンバーワンは“北国のエース”だろう。

 1969年夏、太田擁する三沢(青森)は四国の名門・松山商(愛媛)と決勝で対戦し、延長18回引き分け。翌日、再試合の末に2対4で敗れたが、太田は27イニングを、たったひとりで投げ抜いた。

 今でこそ光星学院の活躍もあって青森県勢が決勝に進出しても別段、驚かなくなったが、当時、寒冷地の学校が決勝までコマを進めること自体、奇跡だった。
 しかも、選手は全員、地元の出身。関西弁を口にする選手はひとりもいなかった。

 とりわけ感動的だったのは優勝校の校歌斉唱など、一連のセレモニーが終了した直後だ。太田はマウンドに走り、甲子園の土を袋に詰め始めた。
 グラウンドの端で甲子園の土を持ち帰る球児は、それまでもたくさんいた。しかしマウンドまで行って土をすくったのは、後にも先にも太田ひとりだろう。

 数年前、その話を本人に振ると、「いやぁ、無意識のうちにそうしていたんです。後になって自分でも驚いたくらいですから」と話していた。

 決勝の2試合だけで、太田は27イニング、384球も投げた。体は悲鳴を発しなかったのか。
「不思議なものでね、疲労も度が過ぎると、何も感じなくなるんです。逆に力みがとれ、スムーズなピッチングになる。再試合でのフォームは、おそらく僕にとって最高のものだったと思います」

 心頭滅却すれば火もまた涼し――とは戦国時代の臨済宗の僧・快川紹喜の言葉だが、炎天下での熱投を通じて、太田もそんな心境に達していたのだろう。
 それを思えば、甲子園とは恐ろしい場所である。人間離れした修養と鍛練を強いられるのだ。今夏の近畿地方は猛暑との予報が出ている。

<この原稿は2013年8月23日号『週刊漫画ゴラク』に掲載された原稿を一部再構成したものです>

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