「毎日、海にいるのが当たり前でした」
 プロサーファー・高橋みなとが初めて海を訪れたのは生後2週間の時だ。サーファーである父とウインドサーファーの母との間に生まれた。名前の「みなと」は、故郷でありホームポイントである宮城県の仙台新港の「港」からつけられた。幼い頃から両親に連れられた海が高橋の遊び場だった。そして、そこで多くのサーファーを目にしてきた。そんな彼女が、サーファーへの道を歩んだのはもはや必然だった。高橋は小学4年になると、地元のサーフショップが主催するサーフィンスクールに入校した。
(写真:s.yamamoto)

 心を奪われたプロのライディング

 高橋はみるみるうちに技術を身に付け、地元で行われる大会では何度も優勝を飾った。だが、県外で行われる大規模な大会に出場しようとはしなかった。
「地元では同年代の女子で本格的にサーフィンをしていたのが私くらいだったので、勝つことができたんです。でも、県外で行われる大会には、私のようにサーフィンに打ち込む女子選手がたくさんいる。負けるのが嫌で、大会参加を打診されても断っていました」

 だが、小学6年になった高橋は、師匠として尊敬するサーファーから「負けてもいいから、出てみたらいいんじゃないか?」と背中を押され、ついに千葉県で開催された大会に出場した。そして、この時に参加した大会がきっかけで、彼女はプロサーファーを目指すことになる。

 高橋は見事に決勝進出を果たした。決勝に向けて準備していると、会場ではプロサーファーによるエキシビジョンが始まった。ジュニアサーファーらにトップレベルの技術を披露するのが狙いだった。波を乗りこなす技術、ダイナミックな大技……高橋はプロサーファーたちのライディングに心を奪われた。

「自分もこんなにかっこよく乗れるようになりたいと思いました。そして、自分のライディングも、人に感動を与えられるようになったらいいなと。それがプロサーファーを目指し始めたきっかけでした」

 結果も地元以外の大会では初出場ながら4位入賞。思い切ってチャレンジした大会で、高橋は大きな自信と夢を得た。

 完敗の中で得た収穫

 プロという目標ができた高橋は、ほぼ毎日波に乗り続けた。中学では部活動が義務付けられていたため、水泳部に入部したが、顧問や仲間は「大会で頑張ってくれればいいよ」と、普段はサーフィンの練習に打ち込むことに理解を示してくれていた。高校では陸上部に所属した。“陸上部所属のサーフィン選手”として顧問の許可を得ることで、授業の欠席を公認してもらうためだ。一方で、高橋は学校をおろそかにしていたわけでもない。週末の大会を終えると、たとえ開催地が離れていてもなんとか月曜の朝までには仙台に戻り、通常通りに登校した。そのなかで、高校1年時にはNSA(日本サーフィン連盟)09年全日本ガールズで2位に入るなど、出場する大会で次々と結果を残していった。

 高校時代には海外の大会にも参加した。2年時には、20歳以下のサーファーにとって最高峰の大会である「World Jr Championship(WJC)」に初出場を果たした。結果はバリ島が会場となった第1戦(10年10月)では17位、3カ月後にオーストラリアで行なわれた第2戦(11年1月)で9位だった。第2戦では世界トップクラスの実力者ローラ・エネバー(オーストラリア)と対戦した。男子並みの技の豪快さ、波取りのうまさ、トリック成功率の高さ……ローラはすべてが高レベルで、高橋は「歯が立たなかった」という。

 だが、オーストラリアから帰国した際の11年1月17日付のブログには、こんな感想が綴られている。

<なんでかな? とにかく楽しかった>

 確かに結果は完敗だった。しかし、世界との差を痛感する中で、高橋は収穫を得ていた。特に第2戦で「『マンオンマン』を経験できたことは大きかった」と彼女は語る。

「マンオンマン」とは1対1で行うサーフィンの試合形式のことをいう。優先権が与えられた選手から先に波に乗ることができるというルールがあり、もう一方の選手は、相手が乗った以外の波にしか乗ることができない。優先権は交互に与えられ、制限時間内に採点されたライディングの中からベスト2本の合計点数が高い選手の勝利となる。優先権が与えられた選手がリードしている場合はわざと波に乗らず、時間稼ぎをするなどの駆け引きも行なわれる。

 高橋にとって「マンオンマン」で戦うのは初めての経験だった。
「あまりルールもよくわかっていなくて、思うようなライディングができませんでした。でも、オーストラリアで経験したことで、今は『マンオンマン』がすごく得意になっています。ローラとの戦いで駆け引きの仕方を学びましたからね」

 WJCから仙台へ戻った高橋は、再び世界で戦うために自身のライディングを磨いた。また、彼女は「高校在学中にプロになる」という目標も掲げていた。
「卒業する前にプロになって注目されれば、地元の新聞などが取り上げてくれるかもしれないと考えたんです。そうすれば校名も掲載される。高校の関係者の人たちは、私をすごく応援してくれました。ですから、恩返しの意味で高校生のうちにプロになりたかったんです」

 高橋は目標に向かって突き進もうとしていた。しかし、想像を絶する試練が彼女の前に立ちふさがった。11年3月11日――高橋の住む宮城県をはじめとする東日本地域が未曽有の大震災に見舞われたのである。

(後編につづく)



<高橋みなと(たかはし・みなと)>
1993年8月9日、宮城県生まれ。小学4年でサーフィンを始める。地元・仙台新港を拠点に、国内外の大会に出場。2011年、JPSA千葉オープン・JWMAプロ・マニューバーラインカップで4位になり、プロ資格を取得した。昨年に行われた「第2回マルハンワールドチャレンジャーズ」にて協賛金100万円を獲得。「ASP Murasaki Pro Jr」(10年)、「ASP Oakley Pro Jr」(11年)、「ASP ROXY Girls Ikumi Open」(12年)で優勝。今年8月には「ASP Go Pro junior」を制し、自身3度目の「World Jr Championship」(ブラジル)出場権を獲得した。
(写真:s.yamamoto)

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『第3回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、5名のWorld Challengers決定!
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※このコーナーは、2011年より開催されている、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(文・写真/鈴木友多)
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