中出将男(車椅子卓球)「幕が開けたリオへの挑戦」

 2012年7月、車椅子卓球・中出将男は眠れない夜を過ごしていた。その日、海の向こうではロンドンパラリンピックの代表選手の選出が行なわれていたのだ。ロンドンへの切符は20枚。当時の中出の世界ランキングは20位だった。 「選考結果は国際卓球連盟パラリンピック卓球委員会のHPに掲載されることになっていました。僕はもういてもたってもいられなくて、夜中の0時からずっとHPをチェックしていました。でも、少し経って気付いたんです。まだ現地は日付が替わっていないんだって。我ながらアホやなぁと思いましたよ(笑)」  いつの間にか眠ってしまった中出が選考結果を知ったのは、翌日の夕方だった。結果を目にした中出は泣かずにはいられなかった――。

田中蕗菜(セパタクロー)<後編>「悔しさが促したレベルアップ」

 田中蕗菜は2010年、同年のアジア競技大会の代表候補に選ばれた。しかし、選考後に発表された代表9名のなかに、彼女の名はなかった。アジア大会はセパタクロー界において、キングスカップと並ぶ最高峰の大会。それだけに田中は「悔しかったですね」と、胸の内を語り、そしてこう続けた。「あの時に落選してよかったと今は思っているんです。落ちたことで、今までやってきた練習方法などを見直しました。すると、翌年からプレーの感覚が変わったんです」  それは、彼女が一段階レベルアップしたことを意味していた。

田中蕗菜(セパタクロー)<前編>「運命的な出合いと再会」

「なんだ、この競技は!?」  小学6年だった田中(旧姓=増田)蕗菜は、偶然テレビで見た球技に目を奪われた。小さなボールを、猛烈なスピードで蹴り合っている。画面の向こうで行われていたのは、セパタクローだった。セパタクローはマレー語の「セパ」(蹴る)と、タイ語の「タクロー」(ボール)の合成語。プラスティック製で籠状に編まれたボールを、ネットを挟んで脚や頭を使って相手コートに入れ合う。東南アジア各地で9世紀ごろから行われている。「足で行うバレーボール」とも呼ばれ、当時、バレーをやっていた田中も「バレーと似ていておもしろそう」と関心を抱いた。

Little Tiger(ムエタイ)「タイガーマスクの継承者、新たな伝説へ」

 ジャッジを待つ間、王者は下を向き、挑戦者は力強く前を見据えていた。どちらが勝者かは一目瞭然だった。3−0の判定で新チャンピオンが誕生した。9月15日、東京・ディファ有明でムエタイファイターのLittle Tigerが4個目の世界タイトルを獲得した瞬間だった。WPMF(世界プロムエタイ連盟)世界女子ピン級の王座は、彼女にとって3度目の挑戦にして、ついに手に入れたベルトだ。

高橋みなと(プロサーファー)<後編>「見る人を魅了するライディング」

「今日は海に入らなくてもいいかな……」  2011年3月11日、高校2年だった高橋みなとはその日、朝起きるといつものように波をチェックした。仙台新港から臨む海は、不気味なほど静かだった。比較的近い福島県の海岸では多少、波があるとの情報もあったが、彼女は海でのトレーニングをとりやめた。ちょうど高校のテスト期間明けで、いつもなら波に乗れなかった分を取り戻したい気持ちで溢れているはずだった。普段は「どんな波でも乗りなさい」という母親も、その日は練習中止について反対しなかった。それから数時間後、経験したことのない揺れが仙台の自宅を襲った。「東日本大震災」だ。

高橋みなと(プロサーファー)<前編>「必然だったサーファーへの道」

「毎日、海にいるのが当たり前でした」  プロサーファー・高橋みなとが初めて海を訪れたのは生後2週間の時だ。サーファーである父とウインドサーファーの母との間に生まれた。名前の「みなと」は、故郷でありホームポイントである宮城県の仙台新港の「港」からつけられた。幼い頃から両親に連れられた海が高橋の遊び場だった。そして、そこで多くのサーファーを目にしてきた。そんな彼女が、サーファーへの道を歩んだのはもはや必然だった。高橋は小学4年になると、地元のサーフショップが主催するサーフィンスクールに入校した。

NO EXCUSE(車椅子バスケットボール)<後編>「言い訳のないチャレンジ」

「今回の選手権では2人の若手に注目してください」  5月に行なわれた内閣総理大臣杯争奪第41回日本車椅子バスケットボール選手権大会の直前、チームのみどころを訊くと、及川晋平ヘッドコーチからは2人の名前が挙がった。湯浅剛と田中聖一。ともに加入2年目、チーム一の成長株だ。そしてもうひとり、彼らの名前を挙げたのがチームの中心である安直樹だ。彼は2人をこう表現している。 「今、一番成長著しいのは湯浅と聖一でしょう。賢くて理解が早い湯浅は、チームの頭脳的存在で抜群の安定感がある。一方、聖一の場合は、持っているポテンシャルが非常に高い。当たった時は大きいんです」  言うなれば、湯浅と田中は正反対のタイプのプレーヤーだ。そんな2人が今、チーム強化のカギを握っている。

NO EXCUSE(車椅子バスケットボール)<前編>「2年連続準優勝がもたらす光」

<これは失敗ではなく負けだ。失敗はしていない。失ったものはないと思う。>  2013年5月5日。内閣総理大臣杯争奪第41回日本車椅子バスケットボール選手権大会・決勝。2年連続で準優勝となったNO EXCUSE(東京)のヘッドコーチ及川晋平は、翌日のブログでこう書いている。昨年に続いて決勝に進んだNO EXCUSEだったが、宮城MAXに45−77で敗れ、大会史上初の5連覇を阻むことはできなかった。 「もう、まさに完敗でした。あんなやられ方、久しぶりでしたよ」  主戦の安直樹がそう口にするように、ロンドンパラリンピック日本代表の半数以上が所属する宮城MAXにNO EXCUSEは歯が立たなかったと言っても過言ではなかった。 「MAXの力が上でした」  及川もそう認めている。だが、チームは決して後退したわけではない。そこには着実に前進している姿があった。

山本祐揮(アームレスリング)<後編>「世界最強の腕力へ」

「明日、世界タイトルを獲るよ」  世界大会(2010年12月)の前日、山本祐揮は開催地のウクライナから静岡の自宅で待つ妻に電話でこう約束した。出発前は「どこまでやれるか」というまさに腕試しに行く気持ちだった。しかし、それは決戦の地を踏むと勝ちたいという欲望に変わっていた。

山本祐揮(アームレスリング)<前編>「“一瞬の美”に魅せられて」

 アームレスリングは競技台を挟んで2人の選手が対峙し、互いに腕1本のみで勝負をつける。究極の力比べともいえるだろう。そんなアームレスリング界で、最強への道をひた走るのが山本祐揮だ。その柔和な笑顔とは少々不釣り合いな身長183センチ、体重97キロの体躯を誇る。今年6月9日に行われた全日本選手権ではA−1(レベルカテゴリーの種類。同大会ではこの下にA−2も設けられている)レフトハンド100キロ級を制し、3階級制覇(10年80キロ級、11年90キロ級。ともにレフトハンド)を成し遂げた。

金山英勢(リュージュ)<後編>「リュージュに人生を懸ける」

 金山英勢は、高校に入っても、陸上競技とリュージュの“二足の草鞋”を履き続けていた。1年の冬、金山はリュージュで初めての海外遠征に帯同した。トリノ五輪(イタリア)の競技会場ともなったチェザーナでのトレーニングで、悲劇は起こった。16歳の金山は、ユース(14〜16歳)のスタート台から滑っていた。だが、好奇心も向上心もあった彼は「もっと上に上がりたい」と、コーチを半ば押し切るかたちで、本来はジュニア(17〜19歳)が滑走する高さからのスタートにチャレンジした。そこで金山は滑走中に操作を誤り、宙を舞った。そのまま勢いよくコース上に落下。立ち上がろうとした瞬間、「高圧電流が走った」という今まで感じたことのない激痛が金山を襲った。脳震盪も起こしており、気が付くと、担架で運ばれていた。

金山英勢(リュージュ)<前編>「時速140キロのスピードに魅せられて」

 リュージュはボブスレー、スケルトンと並ぶ3大ソリ競技のひとつだ。ソリの上に仰向けで寝た姿勢で曲がりくねった坂道を滑走し、1000分の1秒を競うリュージュ。男子1人乗り種目では、1000メートルを超えるコースを最高時速140キロ超の高速で滑り、ボブスレーとともに“氷上のF1”と呼ばれている。スピードに乗った状態でソリごとコースの壁にぶつかることもあり、身体への衝撃も大きい。常に危険と隣り合わせのスポーツだ。そのスリルに魅せられた男がいる。現在、ソチ五輪を目指す日本代表の金山英勢(札幌学院大)である。

小松正治(カヌースプリント)<後編>「水面に輝く世界のコマツへ」

 小松が世界を意識し始めたのは高校1年の時だ。インターハイのペア200メートルを優勝し、ジュニアの日本代表としてアジア選手権に出場した。自身にとって初の国際大会で3位入賞を収める。 「高校1年でメダルを獲れたのだから、頑張れば世界と戦えるかもしれない」  それ以来、「世界で勝つこと」を目標にカヤックを前へ進めてきた。

小松正治(カヌースプリント)<前編>「世界へ漕ぎだしたスプリンター」

 次世代の水上スプリンター。自らをそう称して世界へ挑む若者がいる。  小松正治、21歳。この3月に香川・府中湖で開催されたカヌースプリント海外派遣選手権選考会で好成績をあげ、自身初の日本代表入りを果たした。カヤックシングル200メートルで3位、同ペアでは優勝を収めた。

鈴木由路(ハンググライダー)<後編>「“空を飛びたい”夢を現実に」

: ハンググライダーをやろうと思ったきっかけは? : 空を飛びたい。これが小さい頃からの夢でした。影響を受けたのはジブリ作品ですね。たとえば「風の谷のナウシカ」のメーヴェ(登場人物が移動に使っていた飛行装置)。ああやって空を自由に飛べたらいいなと思っていました。他にも「天空の城ラピュタ」や「魔女の宅急便」にも触発されました。中学の時にはスカイダイビングのインストラクターになりたかったほどです。高校を卒業するにあたっても、ハンググライダーサークルがある大学を探して受験しました。

鈴木由路(ハンググライダー)<前編>「上昇気流の見つけ方、教えます」

 世界で一番、鳥に近い人間になる――大きな夢を抱いて空を飛び続ける選手がいる。ハンググライダーの鈴木由路だ。ハンググライダーはベルトに吊り下げられた状態で、三角状になっているバーを操作しながら上昇気流をつかまえ、高く舞い上がる。競技では2000メートルから3000メートル上空を飛び、100〜200キロ先の目的地にいかに早くゴールするかを競う。この1月、自身3度目の世界選手権(オーストラリア)に出場した鈴木に、ハンググライダーの魅力や奥深さを二宮清純がインタビューした。

堀口文(ラート)「見え始めた世界の表彰台」

「日本代表選手になりたい」  小学生の頃、オリンピックで日の丸をつけて戦う姿を見て憧れを抱いた。それ以来、ずっと思い描いてきた夢。それがラートという競技との出合いによって確かな目標となり、そして現実のものとなった。しかし、それで満足することはできなかった――。 日本ラート界を牽引する存在となりつつある堀口文。今、彼女の視線の先にあるのは、世界だ。

長谷川玄(ラクロス)「世界を変える目立ちたがり屋」

「勝たなきゃいけない試合。でも、ここがゴールじゃない。それ以上を求めていました」  男子史上初の全日本ラクロス選手権5連覇を成し遂げたFALCONSのMF長谷川玄はそう言い切った。元来はお調子者。勝利に沸き、はしゃいでもおかしくはない。試合終了の笛が鳴り、優勝が決定した瞬間、長谷川は淡々とヘルメットを脱いだ。決して、うれしくないわけではない。ただ、目先の勝利だけではなく見据える未来がある。

大久保亜弥(フリースタイルスキー・スロープスタイル)波より雪に惚れた“湘南スキーヤー”

 ジャンプ、大回転、クロスカントリー、モーグル……多くのスキー種目のなかで、フリースタイルスキーの「スロープスタイル」は、次々とアクロバティックな演技が繰り出されるエンターテイメント性の高いスポーツだ。来年に迫ったソチ五輪で新たに採用される種目のひとつで、大久保亜弥はソチ五輪出場を目指す同競技の女子日本代表である。

松田干城(総合格闘技)「アウェーで挑戦し続けるファイター」

 母国での戦いながら気分はアウェーだった。  2012年12月16日に行われた格闘技大会「GLADIATOR49」(ディファ有明)。プロ格闘家・松田干城は日本のリングに初めて立った。米国ボストンを拠点にしている26歳はここまで総合格闘技で10戦7勝(3KO)をあげ、米国のローカルタイトルながらバンタム級のチャンピオンベルトを持っている。しかし、日本では全くと言っていいほど、その名は知られていない。観客がどんな反応を示すのか、実際に登場してみなければ分からなかった。

小橋勇利(自転車ロードレース)<後編>「日本人初のツール・ド・フランス制覇へ」

: 高2の夏、いよいよ本場のヨーロッパでのレースに参戦します。肌で実感した世界のレベルは? : 確かに日本とは全くレベルは違いましたが、意外と“いけるかもしれない”と感じたレースになりました。最初は完走が目標だったのに、最終的には最後のゴール前の争いでミスをしなければ、結構、上位に食い込むことができたんです。もっと練習して、経験を積めば、世界と戦える。自分に自信が持てたレースになりました。

小橋勇利(自転車ロードレース)<前編>「“奇跡の優勝”で見つけた長所」

 昨年実施された第2回「マルハンワールドチャレンジャーズ」では、第1回を上回る657名(チーム)のアスリートから応募があった。書類選考を経て、14名(チーム)が8月に都内で開催された最終オーディションに参加。審査員と参加者の投票により、7名のWorld Challengersが選ばれている。今回からはオーディションに残った全選手(チーム)を順番に紹介していきたい。最初に登場するのは14名(チーム)の中から見事、グランプリに輝いた自転車ロードレースの小橋勇利選手(ボンシャンス飯田)だ。この春の高校卒業後、本場ヨーロッパで勝負をかける決意を固めた18歳に、二宮清純が2回にわたってインタビューする。

小原聡将(ジェットスキー)「世界で水を斬る若きサムライ」

 ブブブブン、ブンブン、ブーンブーン、グイーーーーン!  静かな岸辺に響き渡るモーター音が心地よい。白地のマシンが水面を滑ると、その後を追いかけるように、水しぶきが天高く舞い上がる。太陽に照らされた水滴はキラキラと宝石の如くまばゆい光を放っていた。その宝石たちにリングをつけるかのように小さな虹が生まれた。水上で幻想的な光景を描きながら、ジェットスキーが颯爽と滑走する。操っているのは18歳の高校生だ。小原聡将、世界最年少のプロのジェットスキーライダーである。

黒須成美(近代五種)<後編>「200万円がなければ競技は続けられなかった」

: 黒須さんはまだ21歳ですから、次のリオデジャネイロはもちろん、東京が招致に乗り出している2020年の五輪に出ることも年齢的には可能ですよね。 : はい。私も3回くらいは五輪に出られればいいなと思っています。世界では40歳まで現役を続けた選手もいます。その選手は30代中盤まで世界ランキングが1位でした。

黒須成美(近代五種)<前編>「五輪の落馬から得た“収穫”」

 第1回の「マルハンワールドチャレンジャーズ」から、この夏のロンドン五輪では3選手が出場した。その中で日本人女子では初めて近代五種で大舞台に立ったのが黒須成美だ。近代五種はフェンシング、水泳、馬術(障害飛越)、コンバインド(射撃とランニング)の順で全く異なる5種目を1日でこなし、順位を決める。日本ではなじみが薄いが、欧州では“キング・オブ・スポーツ”と称されるほどの人気競技だ。34位に終わったロンドンを踏まえ、さらなる飛躍を誓う21歳に、二宮清純がインタビューした。

Back to TOP TOP