「タフで、力強くて、海外でも臆さない、うまいだけでなくそういう点も考慮して選手を発掘して行こう」
 これがロンドン五輪代表選考における里内たちの合い言葉となった。タフで、力強い選手――そうでなければ世界で戦うことはできない。特に五輪の場合、登録選手18名で、中2日での試合が続く。ワールドカップと比べてスケジュールも登録選手も条件が厳しいため、多少の怪我にも強く、90分間を走り切れる選手が必要だった。その象徴的な存在となったのが、永井謙佑である。
(写真:里内は永井を「状態の悪いピッチでも問題なく走れる選手」と評価する)
 永井は1989年に広島県福山市で生まれ、3歳の時、父親の仕事の関係でブラジルに移った。8歳で帰国し、その後、福岡県九州国際大学附属高校から福岡大学に進学。当時は同大4年だった。

 身体測定で、永井の裸を初めて見た時、里内は目を見張った。日本人にはめずらしく背中の筋肉が異常に発達していたのだ。トップスプリンターによく見られる体型であった。彼の場合、ただ速いと言うのではなく、無尽蔵のスタミナもあるというところに特異性が感じられた。余談であるが、2011年の2月の中東遠征で、バーレーンのスタジアムでの試合後、ロッカーに向かう通路で永井が何気なく天井(3m以上)にジャンプしてタッチしたときには、滞空時間が異常に長かったことを思い出す。足のサイズも28.5センチと、身長177センチの身体の割には大きい。日本人として規格外の身体だった。筋力トレーニングだけでは生み出せない生まれ持った肉体がそこにはあった。

 永井はボール扱いや動きの巧みさに秀でているかといえば、決してそれほど図抜けているとは言えなかった。しかし、試合になると結果を残す、実戦向きのタイプだった。里内はますます気に入った。 永井が小学生時代、ブラジルのミナス・ジェライス州で育ったと聞いて、彼の逞しさが理解できたような気がした。里内は永井について尋ねられると、「練習では、それほどでなくても実戦)では、間違いなく結果を残す」と太鼓判を押した。

 ロンドン五輪のアジア予選には35チームが参加した。北京五輪の予選の成績上位13チームは1次予選を免除される。北京五輪に出場している日本はこの中に含まれた。2次予選は、1次予選を勝ち抜いた11チーム、1次予選免除の13チームの計24チームを2チームずつ12組に分けて、ホーム・アンド・アウェーで対戦し、勝者が最終予選に進出する仕組みだった。11年6月、2次予選が始まった。日本はクウェートと対戦し、ホームでの第1戦を3対1で勝利、アウェーでの第2戦は1対2で敗れたものの、合計得点が4対3で上回った。

 最終予選は12チームを4チームずつ3組に分け、ホーム・アンド・アウェー方式で各組1位のチームが出場権を獲得。各組2位のチームがアジア地区プレーオフに回る。日本は、シリア、バーレーン、マレーシアと「グループC」に入った。このグループを分析すると、日本が頭一つ抜けており、1次予選から勝ち抜いてきたマレーシアが最も力が落ちる。日本としてはシリア、バーレーンという西アジアの国といかに戦うかがポイントだった。

 9月21日、日本代表は佐賀県にある鳥栖スタジアムでマレーシアと初戦を戦い、2対0で勝利した。続く11月22日にアウェーでバーレーン、27日にシリアとホームで対戦。この2試合が最終予選の前半での山場だった。日本代表は11月17日に大阪で集合、同日夜の飛行機でカタールに向かった。時差調節、気候への順応のため、近隣国であるカタールで2日間トレーニングを行い、試合直前にバーレーンの首都マナマに入った。

 関塚監督以下、スタッフ共通の考え方として「アウェー・ゲームでは、長期間、対戦相手の国には滞在しない」ということで一致していた。食事面や現地での練習環境でストレスを受けることが多いからだ。実際、バーレーン戦では大津祐樹と東慶悟の得点により2対0で勝利し、試合終了直後にスタジアムから空港へと移動して、数時間後には日本へと向かっていた。

 羽田空港に着くとすぐにあらかじめ手配してあった都内の練習場でリカバリー・トレーニングを実施した。というのも、日本とバーレーンの時差は6時間ある。次の対戦相手シリアよりも先に日本に着いて、時差調整しなければならなかったからだ。シリアは22日にマレーシアとクアラルンプールで試合を行い、時差的にはダメージが少ない状況で日本に入ってくる。関塚ジャパンもなるべく早く日本に戻って、準備することがポイントだった。こうした用意周到な計画を遂行し、27日、日本代表は濱田水輝、大津が得点を決めて、シリアを2対1で下した。3試合を終えて、全勝。日本代表は最高の滑り出しだった。

 シリア戦後は2月5日のマレーシア戦まで、期間が空くことになっていた。準備に余念がない関塚ジャパンは年が明けた12年1月、グアムでキャンプを行っている。そして、グアムキャンプ前に集まった11年12月の年内最終のミニ・キャンプで里内は選手たちに向かってこう話した。
「少なくともゲーム・コンディションを整えるためには、概ね1か月半はかかる。五輪に出場するためのアジア予選はJリーグのオフの期間にも行われる。みんなはこれからオフを迎えるが、2月5日のマレーシア戦に向けて、3週間で戦えるコンディションにしなければならない。そのためにもキャンプ初日からトップ・ギアでトレーニングできるように準備してきてほしい」

 またグアムをキャンプ地に選んだのは暑熱対策も踏まえてのものであった。2月5日にシリア、2月22日にマレーシアとのアウェー戦が連続している。暑い環境でオフ明けの準備を進めつつ、蒸し暑いマレーシア対策も練るというものであった。
(写真:東南アジアの気候の厳しさはジーコジャパン時代に体感した)

 里内には苦い経験があった。04年3月末、ジーコが率いていた日本代表はW杯アジア1次予選でシンガポールとアウェーで対戦している。格下のシンガポールに対して、日本は苦戦し、3対2で辛勝した。早春の日本から蒸し暑いシンガポールに移動し、選手の身体が対応することができなかったのだ。
 試合の約1か月前に暑い環境で1週間程度馴化しておけば、身体は暑さに対しても順応しやすくなる。

 しかし――。日本はこのシリア戦で躓くことになる。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。最新刊は『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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