数々のタイトルを手にし、順風満帆だった高校生活を終え、野々村笙吾が進学先に選んだのは順天堂大学だった。五輪出場選手を多数輩出している名門校で、野々村が入学する前年の全日本学生選手権(インカレ)でも優勝を収めるなど、大学体操界をリードしていた。強豪校でありながら指導方針は選手の自主性を尊重しており、彼の通っていた市立船橋高校と同じだったことも魅力のひとつだった。そして、何より野々村が順大を選んだのには、憧れの冨田洋之がコーチでいたからだ。
(写真:得意のつり輪は力強く、そして美しい)
 冨田は現役時代、順大体操競技部が標榜する“美しい体操”の体現者だった。彼とは体操選手としてのタイプが似ていると野々村は言われている。同じオールラウンダーだった冨田は野々村に「彼の方が脚力を備えていますので、オールラウンダーとしての素質は私以上にあると思います。彼が僕に憧れているというふうによく取材で言ってもらえるのですが、どんどん超えていって欲しいですね」と期待する。

 高校3年時、野々村が優勝した2011年ワールドカップ(W杯)ドイツ大会で冨田はコーチとして帯同した。当時の野々村の印象を冨田はこう語る。「初のW杯にもかかわらず、堂々としていて、淡々と演技を成功させて帰ってくるんです」。さらに個人総合での5種目目となった平行棒で、野々村は自らの疲労度を考慮して、演技構成を変更したいと提案をしてきた。高校生ぐらいの年代であれば、戦略を指導者に任せていることが多く、自ら判断し、実行できる選手はなかなかいないという。「彼は自分が置かれている状況をしっかりと把握していました。頭はキレる方だと思います」
(写真:冨田<右>からのアドバイスで「ひとこと言ってもらってできるようになった」ことも少なくない)

 高校時代の恩師である神田眞司も野々村の落ち着きぶりに「とても中学生とは思えなかった」と感嘆し、こう証言する。「初めて会ったのは野々村が中学3年の時、私は国体の千葉県代表の監督をしていました。着地をビシッと決めるし、本番に強いタイプだなと思いました」。その思いは野々村が高校に入学してから一層強くなったという。「やるべきことを自ら考えて、実践していく能力が既に備わっていました。もう少しつめなければならないところには、きちんと時間をかけるなど、指示をしなくても、こちらが“こうすべき”と思う通りの練習をしてくれた。既に大学4年生のような練習ができる選手でしたね」。結果もしっかりと残すなど、まさに野々村は“手のかからない生徒”だった。

 いつも近くにいる「負けたくない」同級生

 順大に入って最初の全日本選手権とNHK杯はロンドン五輪の代表選考を兼ねていた。野々村は、全日本選手権では3位、NHK杯では5位とどちらも自己最高の成績を収めた。代表権を争ったNHK杯では、最終種目の鉄棒を前にして総合3位につけていた。5枠ある代表権のうち、1枠は内村航平(KONAMI)が内定しており、残り4枠は内村を除く2大会合計の総合成績の上位11名の中から以下の基準で選ばれる。個人総合のトップが1枠。ゆかと鉄棒が特化種目として、それぞれの種目の最上位選手が選出され、種目別で最も上位をとった者が最後の1枠を勝ち取る。鉄棒とゆかに関してはスペシャリストたちに比べると劣るオールラウンダーの野々村にとっては、個人総合での枠獲得が五輪に向けての現実的な目標だった。代表争いトップの山室光史(KONAMI)とは0.8点差。野々村は一発逆転をかけた演技を試みた。しかし、序盤のアドラーひねりからの伸身トカチェフでバーを掴めず落下してしまう。その瞬間、五輪という桧舞台への切符がスルリと手から抜け落ちた。

 野々村にとって出場が叶わなかったロンドン五輪、日本は団体戦でエース・内村の不調、山室の負傷離脱と、暗雲が立ち込めていた。そんな日本の救世主となったのが、加藤凌平だった。野々村とは順大の同級生で、父・裕之(KONAMI体操競技部コーチ)も元日本代表選手と体操界のサラブレッドだ。加藤は得意のゆかをはじめ、あん馬、平行棒で安定した演技で高得点をマークし、日本の銀メダル獲得に貢献した。

 野々村笙吾と加藤凌平――。2人はジュニア時代から、将来を嘱望されていた。ただ高校時代の成績では野々村が常にリードしており、特に3年時は表彰台の真ん中に立つのは常に野々村だった。しかし大学に入り、形勢は一転した。ロンドンを経験した加藤は、さらに凄みを増した。昨年、加藤はインカレの個人総合で優勝。今年3月のW杯シリーズの東京大会で個人総合の銀メダル、7月のユニバーシアードでは種目別のゆかで金メダルを獲得した。今や体操NIPPONの中でも、内村に次ぐ位置につけていると言っても過言ではない。

“清風高校コンビ”として一世を風靡したソウル五輪代表の池谷幸雄と西川大輔、アテネ五輪の団体で金メダルを勝ち取った冨田と鹿島丈博、現在の体操NIPPONの主力である内村と山室――。これまで体操界には、いつの時代にも同い年のライバルが競い合っていた。
(写真:日の丸を背負った鹿島<左>と冨田は順大の卒業生)

 野々村と加藤もまた然りである。昨夏のロンドンで加藤は名を上げた。その後の活躍は先述した通りである。一方の野々村は昨秋の大会で肩を負傷し、その後は腰を痛めるなど今年2月までケガに苦しみ続けた。大学入学後、そんな対照的な道を歩んできた2人が名勝負を繰り広げたのが世界選手権の切符がかかった6月のNHK杯だった。

 既に代表に内定している内村を除き、全日本選手権での得点に加え、NHK杯2日間の総得点のトップが世界選手権個人総合の日本代表に決まる。野々村と加藤の2位争いが、すなわち世界選手権出場を巡る争いとなった。NHK杯初日を終えて2位・加藤と3位・野々村の差は、1.125点。野々村の逆転は十分に可能だった。最終日、4種目目まで2人の差は縮まっては離れ、縮まっては離れるという展開となった。5種目目、野々村は得意とする平行棒で、美しい足のラインが際立つ素晴らしい演技を披露し、15.250をマークした。前日を上回る高得点で加藤を追い込む。一方の加藤は14.850点。最終種目の鉄棒を残して、2人の差は0.525点にまで縮まっていた。

 先に演技を実施したのは野々村だった。まずはアドラーひねりからの伸身トカチェフ。1年前は、掴み損ねたバーをしっかりと手の中に収めた。その後も次々と技を決め、フィニッシュは伸身新月面宙返り。剣が大地に突き刺さるように、両足がマットにピタッと収まり着地が決まった。会場の代々木第一体育館に詰めかけた観客からは歓声が沸き、万雷の拍手が送られた。野々村は両拳を握りしめ思わずガッツポーズ。15.350の高得点を叩き出し、総合265.800点。鉄棒を残した加藤とは14.825点差となった。
「自分の中では完璧に近い演技内容でした。後は結果が出るのを待つだけ。やり切ったという感じでした」

 会心の演技を終えた野々村は、“人事を尽くして天命を待つ”心境で加藤の演技を見つめていた。ライバルがいい演技をすれば、自身初の世界選手権への切符を掴むことはできない。果たして、彼の胸の内はどうだったのか。
「凌平が絶対に失敗しないのはわかっていました」

 いつも近くにいるからこそ、野々村は加藤の強さを誰よりも知っていた。野々村の“予感”通り、加藤はミスなく演技を終えた。電光掲示板には15.100の数字が並んだ。わずか0.275点、野々村は加藤に及ばなかった。得点が掲示された瞬間、野々村は頬を緩ませた。張りつめた緊張感から解き放たれた安堵の思いと同時に、悔しさを隠すための表情にも見えた。

 互いにライバルと認め合う2人。野々村は加藤について、こう語る。「一番近い存在ですけど、負けたくないという思いもあります。ライバルっていう感じですね。凌平もたぶん僕には“負けたくない”って、ずっと思っていたと思います。僕もどんどん先に行かれないように、早く追いついて、そして追い越したい。負けたくないから、凌平が練習していたらサボれないんです。近くにいるからこそ、いい刺激になりますね」
(写真:練習熱心な加藤<前>の存在は大きい)

 大学入学後、団体ではともに優勝を目指す仲間として、個人では優勝を争うライバルとして、加藤の力を目の前で見てきた。「空中感覚だったり、ひねりや着地が本当にすごい。あとは肝心な時に絶対失敗しないというメンタル面も強い」。だが、譲れない部分もある。「つり輪の力技など、力強さでは負けていないと思う。それと僕が大事にしている技の正確さについても負けたくないですね」

 美しさの根源にある哲学

 野々村が日々、鍛練を積んでいる順大の体操競技場には「一念、天に通ず」と書かれた幕が掲げられている。 “物事を成し遂げようと一心になれば、それが天に通じて、必ず成功する”という意味だ。それは野々村が好きな言葉に通ずる。「できるかできないかではなく、できるまでできるかできないか」。インターネットで偶然見つけた、この言葉こそ、野々村のフィロソフィー(哲学)となっている。

「練習して、すぐにできる人もいますが、自分は技をやろうと決めてすぐにできるタイプではない。高校の時に神田先生にも “地道にやっていって、最後できた時に完璧な技になるんだよ”と教わりました。そういうところを大事にしています」

 今では「美しい」と形容される足のラインだが、高校入学当初は汚かったという。空中感覚も優れていたわけではない。「ひねりは下手だった」と神田監督は振り返り、こう続けた。「ただ野々村は大事なところでは逃げなかった」。きちんとやるべきことをこなし、手抜きをしなかった。だからこそ高校1年の終わりには、周囲から足のラインが「キレイ」と評価され、苦手だったひねりも3年の時には跳馬で大技「ロペス」を決められるまでになったのである。

 野々村は体操の魅力をこう語る。「練習した分だけ結果がついてくる。技もあきらめなければできるようになる。才能がなくてもできるんです」。今、彼が見せる美しさの根幹には積み重ねてきた努力があった。難度の高い大技よりも完成度を求める――。それが野々村の美学だ。
(写真:原田監督が「もう少し技がついてきたら(種目別で)勝負できる可能性はある」という平行棒)

 今年のインカレでは全種目に出場し、「今まで一番良かった」とパーフェクトに近い演技で順大の3連覇に貢献した。個人総合では90.900の高得点をあげ、種目別のつり輪と団体と合わせて3冠を成し遂げた。最大のライバル・加藤の体調不良があったとはいえ、野々村の反撃の狼煙は上がった。ここからが日本代表としての勝負となる。10月の東アジア競技会では、同時期に世界選手権に出場する内村や加藤不在の中、野々村にはエース級の働きが求められている。団体では全種目に出場する予定だ。

 ロンドン五輪では和仁、理恵、和典の田中3きょうだいが揃って出場したことで話題になったことは記憶に新しい。実は野々村家も“体操3きょうだい”。1歳下の弟の晃司、そして6歳下の妹の璃も体操選手なのだ。野々村家の食卓の壁には将来の夢と題された紙が飾られている。「3きょうだいでオリンピック!」。その下には「東京オリンピック」と添えてある。これは璃が4年前に書いたもので、16年大会招致に東京が立候補していた時期のものだ。その時はかなわなかったものの、今年9月7日には20年夏季五輪・パラリンピックの開催地が東京に決まった。野々村3きょうだいの“夢”が叶う舞台は用意されたということだ。

 これまで五輪で28個の金メダルを手にしてきた体操NIPPONが今、最も欲しているのが、アテネ大会以来となる団体での王座奪還だ。野々村、加藤の順大のダブルエースには、3年後のリオデジャネイロでその主力となるポテンシャルが十分にある。「内村がそのままいると考えて、凌平が上がってきて、2枚目の柱になる。野々村は3枚目の柱にスイッチできるだけの選手になれるはずです。そして、そうあるべきだと思っています」と順大体操競技部の原田睦巳監督が語れば、コーチである冨田も同様の意見を述べる。「(日本代表を引っ張る存在に)なってもらわないと困りますし、内村も野々村、加藤を認めている。追いつけ追い越せと、3人が競い合う状況ができれば強い日本チームができあがるはずです」。世界選手権も、五輪もいまだ経験していない野々村だが、周囲の期待値は高い。それに応えるために、今日も彼は完璧な演技を目指す。清く、正しく、美しい体操を――。

(おわり)
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野々村笙吾(ののむら・しょうご)プロフィール>
1993年8月16日、千葉県生まれ。6歳で地元のフジスポーツクラブに入団し、体操競技を始める。市立船橋高校に入学すると、2年時にアジアジュニア選手権大会、全日本ジュニア選手権大会の個人総合で優勝。3年時には、NHK杯で7位に入り、ナショナルメンバー入りを果たす。その後は、全国高校総合体育大会、全日本ジュニア、国際ジュニア選手権大会、W杯ドイツ大会の個人総合を制した。2012年、順天堂大学進学後は、全日本学生選手権大会(インカレ)の団体連覇に貢献。同年の全日本団体選手権大会でも主力として、10年ぶりの優勝に導いた。今年のインカレでは、主力として団体3連覇を経験。また個人総合でも初制覇し、団体と合わせて2冠を達成した。つり輪と平行棒を得意とするオールラウンダー。157センチ。

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(文・写真/杉浦泰介)
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