「どうやら今日も向かい風みたいだぞ」
 日本体育大学駅伝部・別府健至監督はそう言って、原健介の肩をポンと叩いた。その表情には自信がみなぎっていた。原はその時、優勝を確信した。
「復路の朝、ロビーで監督に会ったら、笑顔なんですよ。『よし、今日も向かい風だぞ!』というような感じで。日体大にとって、向かい風は追い風だったんです」
 前年の19位からの大躍進。30年ぶりの総合優勝。それは“奇跡”ではなく、“狙い通り”だったのである。
 優勝へのプロローグ

 2013年1月2日午前8時、号砲とともに第89回東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)がスタートした。1区で先頭に立ったのは、史上初の往路5連覇を狙う東洋大学。日体大はトップと35秒差の7位につけていた。この時、日体大の優勝を予想した者は皆無に等しかったに違いない。だが、日体大の選手たちは自分たちの力を信じ切っていた。それはスタート前の様子からも垣間見られたという。

「その日は風が強くて、しかも向かい風でした。どの大学の選手も『この風、やばいよ』と不安な顔をしながらアップしていたんです。ところが、日体大の選手は、みんな落ち着いていました。後で聞いたら、心の中で『よし、きた!』と思っていたそうなんです」

 その自信は本番直前の合宿にあった。前回、同校としては史上最低の19位に終わった日体大は予選会に出場しなければならなかった。見事、トップ通過を果たしたものの、12月に行なう本番に向けた直前合宿の場所の確保に出遅れた。最後の調整に適した環境が確保できるような所の宿は、もう他の大学でいっぱいだったのだ。残っている中から候補に挙がってきたのは、伊豆大島にある宿だった。しかしそこは、走る環境としてはリスクが高い場所だった。

「そこのコースはアップダウンが激しく、地形的に強風が吹く場所なんです。ですから、うまくいけば非常にいい強化トレーニングになりますが、選手には負担が大きいので故障者が多く出る可能性もある。本番直前で故障者が出るのが一番怖いですからね。最初はどうしようか迷いました。でも、監督が『ここでやるぞ』と決断した。きっと選手は耐えられると思ったんでしょう。それだけ、1年間やってきことに自信があったんだと思います」

 案の定、合宿初日から強風に見舞われた。それでも、予定通りのメニューを課し、選手たちは黙々と消化していった。ひとりの故障者も出さずに迎えた最終日、仕上げの30キロ走が行なわれた。その日は前日からの低気圧で、船が出られないほどの強風が吹き荒れていた。

「朝起きて、外に出たら、もう立っていられないくらいの強風が吹いていました。これはさすがに30キロ走は中止かな、と思っていたら、監督は迷うことなく『やるぞ』と。そしたら誰ひとり遅れることもなく、全員が30キロ走を走り切った。後ろから追いかける車の中で、監督がボソッと言ったんです。『これ、勝てるかもな』って」

 その日の夜のミーティングで、別府監督は選手たちにこう言った。
「これだけ強くなったんだから、今年は優勝できるかもしれない」
 初めて監督の口から「優勝」という言葉が出た瞬間だった。
「それを聞いた選手たちの顔も、自信があらわれていましたね。他の大学と比べて、とかではなく、とにかく自分たちが強くなっているということを実感していたんだと思います」

 原は選手たちにこう激励した。
「これだけの風の中をオマエらは走り切った。BCT(ベース・コントロール・トレーニング)をやっても、風に耐えることができた。箱根にどんなに強い風が吹いても、この風を経験しているんだから怖いものはない。オマエらは負けないよ」
 こうして迎えた本番、日体大の思惑通りとなったのである。

 BCTが生み出した快走

 1区で7位だった日体大は、2区で一気に3位に浮上し、トップをいく東洋大を追いかけた。風の強さが増せば増すほど、日体大の選手たちは、本領発揮とばかりに力強い走りを見せた。4区で2位に上がり、平塚中継所で5区・服部翔大にたすきを渡した時点では、トップの東洋大との差は1分49秒。往路での優勝は、3年生(当時)ながら主将に抜擢された服部に託された。服部は後方から追い上げてきた早稲田大・山本修平とともに、14.4キロ地点で東洋大・定方俊樹を抜いてトップに躍り出る。そこから服部、山本のマッチレースが繰り広げられた。

 しかし、この時既に2人には体力的にも精神的にも差があった。
「服部は、並びながら相手の走る姿を見て、自分との違いを感じていたそうです。映像で見ててもわかりましたが、強風にあおられながら苦しそうに頭を振って走っている相手の選手に対して、服部はきれいな姿勢で走っていました。伴走車に乗って後ろから見ていた別府監督も『よし、これはいける』と思っていたそうです」

 服部は最も傾斜のきつい宮ノ下坂にさしかかったところで、スパートをかけた。案の定、山本は服部についていくことができなかった。服部はそのまま独走体勢に入り、トップでゴールテープを切った。標高874メートルの最高到達点では風速18メートルもの強風が吹き荒れる中での厳しいレースだった。だが、それは日体大にとっては恵みの風だったのだ。

 翌日の復路でも、日体大は風の恩恵を受けた。風の向きは前日とは逆方向。つまり、箱根から東京に向かう選手たちにとっては、またも向かい風との戦いとなったのだ。別府監督の頬は自然と緩んだに違いない。その指揮官の予想を上回る走りを見せたのが、6区・鈴木悠介だった。鈴木は下りではずば抜けて強さを発揮するものの、登りは目を覆いたくなるほど弱かった。6区は「山を下る」というイメージがあるが、実は前半に5キロの登りがある。いくら往路で貯金をつくっても、その5キロで貯金を全て使い果たしてしまえば、元も子もない。

「鈴木は背中を反らすようなフォームなんです。だから、下りではちょうどいい姿勢になるから強い。逆に登りになると、視線が上になって顎が上がりやすいんです。それでは前に進むことはできない。とはいっても、前かがみになればいいかというと、そうではないんです。よく登りでは『前傾姿勢で』と言われますよね。そうすると、頭を下げると勘違いする人が多い。でも、違うんです。要はどれだけ目線をずらさずに、姿勢をキープすることができるかなんです。それは、登りでも下りでも、そして平地でも同じこと。そのためには、体幹部分を鍛えることが重要なんです」
 その体幹部分を鍛えるためにつくられたBCTは、鈴木の走りを変えた。

 1月3日午前8時、鈴木はひとり箱根をスタートした。2位・早大との差は2分35秒。その4秒後には東洋大が続いていた。後続のチームはいずれも下りの6区で、できるだけ詰めたいと考えていたに違いない。鈴木が登りに弱いことも計算に入れていただろう。だが、小田原中継所での2位・東洋大との差は2分22秒。ほとんど差は詰まらなかった。向かい風が吹く中、鈴木は指揮官の計算よりも速いタイムで走ってみせた。

 鈴木の快走が、その後の大きなアドバンテージとなり、チームに勢いをもたらせた。7区以降、日体大は東洋大との差を広げていき、中継所でたすきが渡るたびに、日体大の優勝は現実味を増した。結局、2位・東洋大に4分54秒差をつけての圧勝で、日体大は30年ぶりの栄冠を手にした。すべては1年間継続して行なってきたトレーニングの賜物だった――。

 “勝つ”ことよりも“正確さ”

 あれから9カ月が経とうとしている。来月には出雲全日本大学選抜駅伝、11月には全日本大学駅伝と、いよいよ駅伝シーズンの到来だ。そんな中、別府監督が口を酸っぱくして言い続けていることがある。それは走りに関してでもなければ、“箱根連覇”という言葉でもない。
「ウォーミングアップやBCTをきちんとやるように!」
 耳にタコができるほど、毎日こればかりだという。

「ウォーミングアップでの体操やドリル、そしてBCTは朝、走る練習の前に行なわれますから、それらがきちんとできないということは、身体あるいは気持ちに問題があるという証拠なんです。『あれ、昨日までちゃんとできていたのに、どこか痛そうだな』とか『今日は集中できていないな』とか、選手の変化を汲み取ることができる。だから別府監督はウォーミングアップやBCTをやっている時、じっと選手の様子を見ているんです」

 今やBCTは選手の強化のみならず、指揮官にとっても選手を見る判断材料として重要なものとなっている。それはBCTがごまかしのない、正確さを追求したトレーニングだからこそである。正確さを追求したこだわりは、回数にもあらわれている。BCTでは、同じメニューを100回も200回もやることはない。基本的には1種目10回、姿勢をキープし続ける時にも30秒である。その理由を原はこう語る。

「例えば腕立てや腹筋を100回やろうとすれば、必ず途中でごまかそうとする。気持ちでは精一杯でも、身体は楽な方にいこうとしますからね。でも、10回なら1回から10回まで集中してやることができる。始まりから終わりまで、同じ姿勢や気持ちでやることが何より大切なんです。それは走りにもつながってくる。スタートした時と同じきれいなフォーム、高いモチベーションでゴールする。それが“ブレない走り”を生み出すんです」

 注目の箱根駅伝まで、既に残り3カ月。今度はどんな走りを見せてくれるのか。
「周りはどうしても連覇という目で見ていると思いますが、別府監督は『前回優勝したからって、連覇を狙おうなんて思わなくていい』と言うんです。『とにかくこれまで通り、正しいことをやり続けよう』と。僕もまったく同じ気持ちです」
 来年1月、BCTで鍛えられた“ブレない日体大”の姿が再び見られそうだ。

(おわり)

原健介(はら・けんすけ)
1970年10月6日、新潟県生まれ。日本体育大学卒業後、日本理療専門学校で、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の資格を取得。2009年、横浜市に「はら治療院」を開業した。学生時代からトレーナーとして陸上部員のケアを担当。別府健至監督が就任した99年からチームの治療を始め、昨春からはコンディショニングトレーナーとしてBCTを指導している。

(文・写真/斎藤寿子)
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