今年5月5日、東京ドームに“ミスター”が元気な姿を現した。昨年末に現役を引退した松井秀喜とともに、国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄。その人気の高さは、77歳となった今もなお健在である。その長嶋の専属広報を17年間務めたのが小俣進だ。現役時代から話題に事欠かない長嶋だが、果たして真の“ミスター”とは――。13年ぶりの現場復帰に始まり、“メークドラマ”、2度の日本一達成、アテネ五輪日本代表監督就任、そして脳梗塞によるリハビリの日々……さまざまな姿を見続けてきた小俣が“ミスター”を語る。
 変わらないファンへの思い

 1992年12月のことだった。当時、巨人の打撃投手を務めていた小俣は、球団に呼ばれた。小俣自身は当然、来年の契約のことだろうと思っていた。厳密に言えば、その予感は当たっていた。だが、用意されたポジションに、小俣は思わず驚きの声をあげた。
「来年から長嶋さんが監督に就任するからということで、広報をやれ、と言われたんです。いやぁ、驚きましたよ。広報なんて、どんなことをするかもわからない。まったくの畑違いですからね。なんでも、第1次長嶋政権の時に、僕が現役選手として長嶋さんの下でやっていたから、というのが理由だったようです」

 93年は巨人フィーバーに沸いた年だった。長嶋の13年ぶりの現場復帰に加えて、息子の一茂がヤクルトから移籍。さらに前年夏の甲子園でいわゆる“4打席連続敬遠”が社会問題化され、日本全国にその名を轟かせた松井が入団したこともあり、注目度が一気に高まったのである。

「春のキャンプからマスコミやファンが殺到しました。特に長嶋さんへの注目はすごかったですね。一歩グラウンドの外に出ると、一瞬で100人ほどが長嶋さんの周りを囲むんです。長嶋さんが動けば、その後を集団がついていくものだから、遠くから見ていても、どこに長嶋さんがいるか、すぐにわかっちゃう(笑)。広報はとにかく大変でしたね。休日なんてまったくありませんでした。それこそ、1年目は忙しかったことしか覚えていないくらいです」

 長嶋が初めて監督に就任したのは、現役を引退した翌年、75年のことだ。前年、巨人は10年ぶりに2位に転落。いわゆる“V9”時代に終止符がうたれた。名将・川上哲治からバトンを渡された長嶋は強い意気込みがあったのだろう。39歳という若さもあり、その指導は厳しかった。
「当時は定岡正二や角盈男、西本聖、それに僕といった若いピッチャーがたくさんいて、育てなくちゃいけない、という気持ちが強かったんでしょうね。特に僕らピッチャーが長嶋さんに叱られたのは四球を出した時。勝負せずに最初から逃げたとみなされて、監督室でよく正座をさせられましたよ」

 だが、2度目の就任となった03年には、選手への接し方はガラリと変わったという。
「当時、巨人には斎藤雅樹、槇原寛己、桑田真澄というプロ野球を代表する先発3本柱がいて、チームとして成熟していた。それもあったんでしょうね。勝負には厳しかったですけど、選手に対して叱るということはなかったですね」

 それでも第1次政権と変わらないものがあった。ファンを大切にすることだ。それはこんなエピソードからもわかる。
「キャンプ中などで大勢の人に囲まれながら、ファンからサインを求められることもあったんです。長嶋さんが足を止めれば、みんなが止まりますから、なかなかその場ですることはできない。『じゃあ、後でね』と言うんですけど、普通なら社交辞令じゃないですけど、それで終わってしまいますよね。ところが、長嶋さんは必ず『小俣、さっきサインをする約束をしたから、ちょっと取ってきてくれ』って言うんです。どんなに小さな約束でも、ちゃんと覚えていて、言った以上は必ず守る方でしたね」
 約束した人が、どんな服装でどんな髪型だったのかも、細かく覚えていたという。長嶋の記憶力に、小俣は何度も驚かされた。

 有言実行の“1000日計画”

「一番の思い出は長嶋さんと素振りをした時間。それが一番印象に残っている」
 昨年12月、20年間のプロ野球生活に終止符をうつ決意をした松井秀喜は、引退発表の席でこう語った。ニューヨーク・ヤンキースという名門で活躍し、ワールドシリーズで日本人初のMVPに輝いた松井だが、彼にとってやはり長嶋の存在は格別なのだろう。松井の言葉からも、2人の関係の深さが窺い知れる。

 2人の師弟関係は、92年のドラフト会議で4球団の強豪の末に、長嶋が松井の交渉権を引き当てた瞬間から始まった。長嶋が松井に対する“4番1000日計画”を打ち出すと、マスコミもこぞって取り上げ、新聞紙上をにぎわせた。だが、それは決してリップサービスではなかった。
「長嶋さんと松井との素振りの話は有名ですが、試合があってもなくても、ホームでもビジターでも、本当に毎日行なわれていました。確か松井が3年目の時だったかな。ある日、地方の球場からの移動日、既に早朝の新幹線でひとり東京に戻っていた長嶋さんから電話があったんです。『松井が東京に着いたら、すぐにつれてきてくれ』と。何でも前日の試合での松井のスイングが気になったようで、すぐに見たいからと。とにかく、いつも松井を気にしていました。一方、松井もどんな時も嫌な顔ひとつせずに、呼ばれれば、すぐにバット1本持って行っていましたよ。口数は少ないですけど、長嶋さんには全幅の信頼を寄せていることはわかりましたね」

 当時から長嶋は、松井を“日本の4番”にすると考えており、松井も自分の立場をよく理解していた。彼らは言葉ではなく、感性でつながっており、阿吽の呼吸だったと小俣は言う。
「プロ野球界に40年近くいたけど、長嶋さんのように、本当に毎日つきっきりで指導する監督なんて、まず聞いたことがない。松井もそれに応えていましたからね。あの2人にしかできないことですよ」

 計画通り、松井を4番に育てあげ、巨人をリーグ優勝3回、日本一1回に導いた長嶋は、2001年オフ、惜しまれながらもユニフォームを脱いだ。本来、その時点で球団職員である小俣が長嶋の広報役を務めるのも終了となる。だが、当時5人いた広報の中でただひとり、引き続き長嶋の専属広報を務めることとなった。なぜ、自分だったのか。その理由は今もはっきりしていない。「ただの巡りあわせでしょうね」と小俣は言う。だが、長嶋が小俣に信頼を寄せていたということだけは確かだろう。

 小俣が専属広報として最も注意していたのが、時間に遅れないことだった。実は長嶋は、きっちりと時間を守るタイプ。待ち合わせ場所には、いつも30分以上前に行くほどだ。
「最初の頃は僕の方が遅かったこともしばしばでした。約束の時間の10分前に行くと、既に長嶋さんがいるんです。だからといって、長嶋さんからとやかく言われたことはなかったですね。でも、だからこそ、僕の方が恐縮してしまうんです。あの“ミスター”を待たせてしまったわけですから。途中からは必ず1時間ほど前に行くにようしていましたね」

 ミスターを突然襲った病魔

 そんな長嶋が突然、病に伏したのは、04年3月のことだ。その日も長嶋には仕事が入っており、小俣は午後に長嶋の自宅に迎えに行く予定だった。ところが、運転手から電話が入り、長嶋が緊急入院したという。すぐに病院に向かった。診断の結果は脳梗塞。予断を許さない状況だった。

 長嶋は普段からバランスのいい食事に、適度な運動と、人一倍、健康には気を付けており、風邪をひくことなど、滅多になかった。だが、当時はいつもより少し疲れていたように、小俣には見えていた。
「その時、長嶋さんはアテネ五輪の日本代表監督として指揮を執っていた。倒れる4カ月前にはアジア最終予選があって、出場権を獲得していたんです。日の丸を背負っての戦いでしたから、プレッシャーは計り知れない。当然疲労はあったと思います。気疲れも相当あったでしょうから、それも少し影響したのかもしれませんね」

 その後の長嶋は、周囲が驚くほどの回復ぶりを見せた。3週間後には本格的にリハビリを始め、何時間も黙々とメニューをこなした。すべては、刻々と迫るアテネ五輪に間に合わせるためだった。病室に飾られたタテジマの全日本のユニフォームが、長嶋の決意を示していた。

「長嶋さんはアテネで指揮を執ることを、決して諦めようとはしませんでした。リハビリは孤独な闘い。しかも動かない手足を動かそうとするわけですから、とても大変です。例えば、動かない足は片足だけで60キロくらいある感覚なんだとか。痛いし、なかなか良くならないしで、嫌だって言って、途中で投げ出す人も少なくないんだそうです。実際、涙を流しながらやっていた人も見たことがあります。でも、長嶋さんは一度も弱音を吐くことなく、来る日も来る日も懸命にリハビリをやっていました。その姿に、もう泣きそうになりましたよ」

 結局、長嶋は日の丸を背負ってアテネに行くことは叶わなかった。だが、その回復ぶりは、医師をも驚かせた。
「入院した日、医師からは覚悟をしてくださいとまで言われていたんです。良くても、寝たきりの状態だと。僕は『長嶋さんが死ぬはずない!』と信じて、とにかく祈るしかなかった。今のように歩いたり話したりすることなんて、誰も想像していませんでした。医師も、ここまで良くなるとは思わなかったと驚いていました。まさに奇跡ですよ」

 ミスターは日本球界の宝

 今日もリハビリは続いているという。今の長嶋にとってのモチベーションとは――。
「この間、長嶋さんの自宅に行って、一緒にお茶を飲んだんです。その時、『小俣、オレは100歳まで生きるからな』って。長嶋さんなら本当に100歳までいきそうですよね(笑)。多分、また日本の野球界に自分が何かしたいという思いが、長嶋さんを奮い立たせているんだと思います」

 そして、改めて長嶋の存在について訊くと、小俣はこう答えた。
「天が与えた日本野球界の宝物ですよ。長嶋さんがいたからこそ、日本のプロ野球界がこんなに発展したんだと思うくらい大きな存在。勝敗だけでなく、ファンに魅せる野球をし始めたのは長嶋さんだと思うんです。三振するにしても、豪快なスイングで観客を沸かせたりと、常にファンを意識して野球をやっていた。努力を惜しまずに技術を磨いたのも、ファンを考えてのことだったと思いますよ。そんな長嶋さんの下で17年間も働かせてもらえたのは、本当に光栄なことだと思っています」

 小俣は自分が長嶋の役に立ったとは決して思っていない。だが「邪魔にだけはならなかった」とは思っている。そんな謙虚さが、“ミスター”を支える最大の要因となったのかもしれない。

(後編につづく)

小俣進(おまた・すすむ)
1951年8月18日、神奈川県生まれ。藤沢商業高卒業後、日本コロムビア・大昭和製紙富士を経て、73年にドラフト5位で広島に入団。75年オフには交換トレードで巨人に移籍後、左の中継ぎとして1軍に定着する。80年オフ、ロッテ移籍後は先発として起用され、同年プロ初完投・初完封を達成した。84年オフに日本ハムに移籍するも、1軍で登板することなく85年限りで現役を引退。その後、巨人の打撃投手、広報、スカウトとして歴任。2012年からはセガサミー野球部のアドバイザーに就任した。

(文・写真/斎藤寿子)
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