幼少の頃、ヒーローに憧れる男子は少なくない。ウルトラマン、仮面ライダー、戦隊モノとテレビに出てくる正義のヒーローは、強さやカッコよさの象徴である。関本大介にとっての、それはプロレスラーだった。プロレス好きの叔父の影響で、父親たちと一緒にいつもテレビ中継にかじりついていた。彼のヒーローは、強くてカッコいい外国人レスラーだった。カウボーイスタイルのコスチュームに、全日本プロレスのリングで暴れ回るスタン・ハンセンの豪快さや、大きさに惹かれていた。


 とはいえ、憧れの思いはあっても、はじめからプロレスラーになろうと志していたわけではない。「プロレスは見るもの、やるのは野球だった」。そもそも名前の由来が野球にかかわっていた。“大介”という名は、父親が名付けた。画数の関係で「すけ」の漢字こそ違うが、早稲田実業の1年生エースとして、甲子園で旋風を巻き起こし、アイドル的人気を誇った「荒木大輔」にちなんでのものだった。

 息子に甲子園のヒーローの名前をつけるほど、野球が好きだった父親の影響もあり、小学3年の時に野球を始めていた。当時の関本が目指していたステージはリングではなく甲子園球場で、清原和博や松井秀喜のような甲子園でその名を轟かせた怪物スラッガーに憧れていた。そして6年になると、関本はチームで4番を打つようになっていた。

 プロレスラーになると決めた日

 関本は主砲だったとはいえ、所属していたチームは強豪ではなく、周囲に注目されるほど活躍をしていたわけではなかった。ましてや大阪という地域は全国屈指の野球激戦区。秀でた実績のなかった彼には、府内の強豪校に入ることさえも困難をきわめた。そこで、甲子園に行くための選択肢のひとつとして、関本は中学から野球留学の道を選んだ。進学したのは高知の名門、明徳義塾。厳しい練習に耐え、彼は中学では3年時に4番を打つまでになったが、全国大会には進めず、大輪の花を咲かせることはできなかった。

 そんなある日、関本にとって、人生の行く先を左右する出来事が訪れた。中学の卒業を間近に控えた頃、大阪府立体育会館での全日本プロレスの興行を見に行った。そこでプロレス四天王のひとり小橋建太に心を奪われたのだ。手強い外国人レスラー相手にも、怯まず立ち向かう小橋の姿に自然と胸を打たれていた。その小橋が逆転勝ちを収め、会場は興奮のるつぼと化した。「いくらやられても諦めない小橋選手の姿に、人間としての美学を感じました」。プロレスラーになりたい――。それまでテレビの中の架空の存在だったヒーローが、その時、関本の現実的な目標となった。

 だが、プロレスラーへの夢を打ち明けると、両親からは反対され、「とりあえず高校を卒業しなさい」と言われた。しぶしぶながら、関本は明徳義塾の中学から高校へと進学。加えてもともと野球で明徳に入ったため、野球部に入部せざるを得なかった。そこで彼は、野球部でレスラーになるための素地を作ろうと、ひたすらウェイトトレーニングに明け暮れた。身体を大きくするために食事もたくさん摂った。野球部監督の馬淵史郎には「そんなに太ったら、自分からレギュラーの道を閉ざしているようなものだぞ」と言われたこともあったが、関本ははっきりと「僕はプロレスラーになりたいんです」と答え、自らの肉体を鍛え続けた。当時、相撲部にいた同い年のモンゴル人留学生に腕相撲で勝った逸話があるほどの怪力だった。その留学生とはドルゴルスレン・ダグワドルジ。のちの大相撲第68代目横綱・朝青龍明徳のことである。

 県下の野球名門校である明徳義塾では「A、B、C、Dとあるうちの一番下のカテゴリーでした」と本人は自嘲気味に話す。だが馬淵によれば代打の切り札的な存在で、ベンチ入り出来るぐらいの実力はあったという。「バッティングについては、パワーがハンパじゃなかった。打球の速さなら寺本四郎より上でした」。卒業後はロッテ入りを果たした当時のエースで4番を凌ぐパワーの持ち主だった。だが、良かったのはバッティングのみ。馬淵はこう続けた。「バッティングは1軍、ただ守備と走塁は4軍でしたね」

 もうひとりの“ダイスケ”の凄み

 関本の在学時、明徳義塾は甲子園に春夏合わせて4度出場した。いずれも彼はベンチ入りを果たせなかったが、アルプススタンドで声を枯らしてエールを送った。関本にとって、一番印象に残っているのが1998年の夏、高校最後の甲子園である。明徳義塾は準決勝までコマを進め、初の優勝旗を手にするまで、あと2勝と迫っていた。対戦相手は、優勝候補筆頭の横浜高校(神奈川)。春のセンバツで優勝し、史上5校目の春夏連覇を狙っていた。

 横浜のエースは関本と同じ“ダイスケ”。現メジャーリーガーの松坂大輔だ。前日の準々決勝PL学園戦で延長17回を1人で投げ抜き、250もの球数を放っていた。準決勝では慣れたまっさらなマウンドではなく、外野手の一角を担った。松坂の名は「4番レフト」でスターティングメンバーに連ねていた。

 その試合で明徳義塾は横浜の2番手、3番手格のピッチャーを打ち崩し、8回表を終わった時点で、6対0と大量リードを奪っていた。その裏には4点を返されたものの、あと1回を凌ぎ切れば決勝進出だった。

 9回表、明徳義塾の攻撃。松坂の名前がコールされ、マウンドに背番号1が登場すると、球場のムードがガラッと変わった。「スタンドのほとんどが横浜側になった」。アルプススタンドで関本はそれを肌で感じとった。結局、松坂に打者3人で切ってとられた明徳義塾は、その裏、横浜に3点を奪われて逆転サヨナラ負けを喫した。2死満塁から横浜の7番打者の打球がセカンドの頭上を越えた瞬間、明徳義塾ナインはその場に崩れ落ちた。「まるで糸で引っ張られていたものがプチッと切られた人形のようだった」と、普段は気の強い仲間たちが見せたその姿は、関本の目に今でも焼き付いているという。

 そして、その敗戦で痛感したのが“平成の怪物”と呼ばれ、決勝ではノーヒットノーランを達成したもうひとりの“ダイスケ”の絶大な存在感である。「松坂という人間の力には、アルプスにいても圧倒されましたね」。松坂が甲子園で発したようなオーラが、プロレスラーにも必要だと、関本は考える。「僕にとっては、ヒクソン・グレイシーが400戦無敗の戦績を持ってしても、たとえばヒクソンがそこに立っているよりも長州力さんやアントニオ猪木さんが立っている方が凄みを感じる」。偉大なプロレスラーを前にすれば、伝説的な格闘家まで霞んでしまうとまで言う。そして、自らもプロレス界の先駆者たちのように、リングに上がっただけで会場の空気を一変させるほどの存在感を示すことを最終的な目標にしている。

 逸材を掴んだ大日本、逃した新日本

 高校卒業後の進路に、迷いはなかった。ある日、馬淵が進路について訊ねると、関本はこう答えた。「プロレスに行きたいんです」。長年、多くの球児を見てきた馬淵だが「後にも先にもアイツだけですね」という進路希望だった。

 馬淵にしてみれば、プロ野球に接点はあってもプロレスに接点などなかった。しかし、回り回って縁は繋がった。関本の同級生には寺本のほかにも、のちにヤクルト入りする高橋一正というプロ注目のピッチャーがいた。そして当時ヤクルトのスカウト部長を務めていた片岡宏雄が、大日本プロレスのグレート小鹿社長と友人だった。そこで片岡を通じて、グレート小鹿に会わせてもらえることになった。

 高校3年の98年秋、野球部が神奈川国体に出場した際に、関本は遠征メンバーとしてチームに帯同した。そして、試合の翌日、ホテルで面接が行なわれた。グレート小鹿への第一印象は「任侠映画に出てくるような感じで、怖かった。キャデラックに乗っていて、見たこともない柄のスーツを着ていたんです」という。ただ面接ではその場で合格通知をもらったようなものだった。グレート小鹿は「卒業したらウチに来い。着替えはいらないから」と言った。トントン拍子にプロレスラーへの道は拓かれていった。関本は大学に行かせたい両親の反対を押し切り、大日本プロレス入団を決めた。入団後、父親に対し、グレート小鹿はこう誓った。「絶対いいプロレスラーにするので安心してください」。そして今、その言葉通りとなっている。

 実は関本は大日本に正式入団する前、父親の紹介で新日本プロレスの関係者とも会っていた。ただ新日本側の答えは、「そんなに甘くない」というものだった。レスリング経験もなければ、上背も大きくない高校生をふたつ返事で入団させられない、と言うのだ。アニマル浜口ジムで3年間修行してからとの条件付きだった。結局、関本は大日本プロレスを選び、各団体を股に掛けるようなレスラーに成長した。その後、父親に会った新日本の関係者は「ここまでになるとは思わなかった。新日本に入れとけば……」と逸材を取り逃がしたことを悔やんでいたという。

 ただし大器のデビュー戦は、華々しいものではなく、黒星でスタートした。99年8月の大阪・鶴見緑地大会。対戦相手は半年早く入団していた先輩の伊東竜二だった。「あまり覚えてない」と語るほど、関本はプロレスの戦い方をまだわかっておらず、5分ぐらいで息が続かなくなったという。それでも2年後にはBJW認定タッグ王座に輝き、団体史上最年少の19歳11カ月でベルトを巻くことになる。そして、その存在感は大日本の枠からも飛び出すほどとなっていった。

(第3回につづく)
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関本大介(せきもと・だいすけ)プロフィール>
1980年2月9日、大阪府生まれ。小学3年で野球をはじめ、中学・高校は高知の明徳義塾へ進んだ。高校在学時、チームは4度甲子園に出場したが、ベンチ入りはかなわなかった。高校卒業後、大日本プロレスに入団。99年8月にデビューすると、01年1月にMEN’SテイオーとのタッグでBJW認定タッグ王座に史上最年少(19歳11カ月)で輝いた。11年3月には岡林裕二と組み、征矢学&真田聖也に挑戦し、全日本のアジアタッグ王座を奪取した。同年の8月には、ZERO1の火祭りリーグ戦を制し、NWAプレミアムヘビー級王者となる。今年3月にBJW認定世界ヘビー級王座のベルト獲得し、現在6度の防衛に成功している。07年にプロレス大賞技能賞を、11年には岡林と最優秀タッグチーム賞を受賞しており、所属の大日本のみならず他団体にも活躍の場を広げているインディー屈指のレスラー。身長175センチ、体重120キロ。



(文・写真/杉浦泰介)


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