1999年夏にデビューした関本大介は、ひたむきに鍛錬を積んだ。その真面目さは、球児の頃から変わらなかった。リトルリーグ時代は監督と選手の関係でもあった父親によれば、「言うたことは絶対やり遂げた」という。明徳義塾高校時代の馬淵史郎監督も、その勤勉さを買い、彼を選手兼マネジャーに任命した時期もあった。競技に対する真摯な姿勢が、レスリング経験がなくても、ずば抜けた体格がなくても、2年も経たぬうちにチャンピオンベルトを巻くことができた一番の理由なのかもしれない。

 

 デビューして間もない頃、長崎県西海町での興行があった。関本は、体育館にリングを設営した後、景色を眺めながら体育館の裏でスクワットをしていた。それがグレート小鹿社長(現会長)の目に留まった。「オマエは本当によく練習するな。その気持ち忘れないで頑張ってくれ」。関本にしてみれば、好きなことをやっていただけだった。それでも小鹿に褒められたのはすごくうれしかった。若手時代は周囲から「とにかく練習しろ」と言われ続けた。その教えを守るというよりは、プロレスが好きで仕方がない関本にとっては当たり前のことだった。

 認められた必殺技

「小鹿さんとの出会いからすべてがはじまっている」という関本のプロレス人生。グレート小鹿に目をかけられた関本は、プロレスのイロハを教わった。恩師の丁寧な指導によりメキメキと成長していった関本は、大日本プロレス内でも着々と地位を築いていった。そのスケールは大日本だけにとどまらず、新日本、ZERO1-MAX(現ZERO1)、LOCK UP、アパッチと他団体の興行にも進出していった。2007年3月にはZERO1‐MAXの崔領二からNWA認定UNヘビー級選手権の王座を奪った。決まり手はやはり必殺のジャーマンスープレックスホールドだった。

 そして、この年の東京スポーツ新聞社主催のプロレス大賞で技能賞を受賞した。“プロレスの芸術品”とも言われる技・ジャーマンスープレックスホールドの使い手であることなどが評価されたのだ。審査員はプロレス担当の新聞記者を中心に構成されているため、取り上げられることの多いメジャー団体のレスラーが受賞しがちである。関本はインディー団体所属ながら、他団体を股にかけて活躍していたことで目に留まったのだろう。関本の受賞は、大日本プロレスの選手として初の快挙だった。

「初めて評価されたというか、見てくれているんだと実感しました」
 実はどこか心の中で “僕らのプロレスなんて見てもらえていない。見てもらえていないから評価されるわけがない”との疑いの気持ちもあったという。それでも賞というかたちで自分のやってきたプロレスが認められたことで、迷いはなくなった。「“プロレスは伝えようとしなければ、伝わらないんだな”と改めて思いました。“どうせオレはいいや”“どうせウチの会社は”と投げ出してしまっては、その枠内で収まってしまう。ことわざに“為せば成る。為さねば成らぬ何事も”とあるじゃないですか。本当にその通りだと思いました。日本一、世界一になると思わなければなれない」。リングの上で表現する者としての意識も強くなった。「伝わらなければ意味がない。相手にも伝わって、お客さんにも伝わる。そんなプロレスを見せたい」

 恩師に捧げる伝統のベルト

 そして11年は関本にとって、この世界でその名を更に知らしめる飛躍の年となった。1月にドイツでのウェストサイド・エクストリーム・レスリング(wXw)というドイツの団体で統一世界王者になったのを皮切りに、3月の全日本プロレス両国国技館大会では、岡林裕二と組んで、老舗団体のリングで暴れ回った。征矢学、真田聖也組から30分を超える激闘の末、獲得したアジアタッグ選手権王座はとりわけ感慨深いものだった。

 全日本は子供の頃から見ていた団体で、アジアタッグは55年以上の歴史を誇る由緒あるベルトだった。それ以上に、関本がこのタイトルを欲していた理由があった。それは恩師であるグレート小鹿が現役時代に保持していたものだったからだ。「小鹿さんに対する思いがあるから、このベルトは特に欲しかったんです。チャンスが巡ってきて、手にすることができで、少しは恩返しできたかな」と語る。

 昼の興行でチャンピオンとなり、その日の夜に後楽園ホールで大日本の興行があった。新王者となったタッグには大日本ファンから大歓声で迎えられた。「お客さんが歓迎してくれて、有難かった」。全日本の前身である日本プロレス時代からあるタイトルで、日本最古のベルトを手にしたことで関本の評価はさらに上昇した。

 この年のプロレス大賞では文句なしで最優秀タッグ賞を獲得。同じパワー系の岡林とのコンビは観る者を魅了した。現在もタッグパートナーを組むことが多い2歳下の相棒について、関本はこう語る。「僕のやることは変わらない。似たタイプで想定しやすいというか、やりやすさはありますね。他の後輩と組むと、色々指示しなければいけないのですが、彼は勝手にやってくれる」。似た者同士で阿吽の呼吸がふたりにはできている。

 成就した10年越しの想い

 この年の8月には「思い入れが強かった」というZERO1の火祭りリーグ戦で初優勝を果たした。実は10年前の火祭り第1回大会には、関本がZERO1-MAX(現ZERO1)の大谷晋二郎へ猛アピールしたことで参戦が決まった経緯があった。大谷が出場者を呼びかけた中で関本が手を挙げたのだが、20歳の若手レスラーに対し、最初は「実績がない」と却下された。申し出を突っぱねた大谷も、食い下がらない関本の熱意を買い、ついに容認したのだった。無名の存在に過ぎなかった20歳のレスラーは、自らの手でチャンスを掴みとった。リーグ戦は全敗に終わったが、大谷には関本というレスラーの存在が色濃く残った。それから10年後、関本が火祭りを初めて制した翌日のブログに、大谷は若かりしき頃の関本についてこう述べている。

<第1回火祭りに参戦直訴してきた関本大介の表情が今も忘れられない。まだデビューしたてで何も実績のなかったまだ20歳の新人レスラーだった。しかしながら緊張した表情ながらもギラギラした目つきが印象に残った>(大谷晋二郎オフィシャルブログ『炎の刃』11年8月8日付)

 そして、逞しく成長した関本は、その10年後、頂点に立ったのだ。田中将斗、崔領二などZERO1の誇る看板レスラーを相手に、Bブロックを首位で突破すると、優勝決定戦の相手は火祭り優勝経験のある佐藤耕平だった。佐藤とはZERO1の道場に練習に行った時、一緒に汗を流したライバルだった。フィニッシュホールドは、やはり関本の十八番・ジャーマンスープレックスホールド。1回目は3カウント寸前で返されたが、即座に2回目を繰り出した。10年越しの想いがこもった必殺技で、3カウントを奪った。7回目のチャレンジで悲願のタイトルを獲得し、勝者の証である火祭り刀をリング上で誇らしげに突き上げた。

 その他にもK-DOJOのSTORONGEST-K王座、ユニオンプロレスのKO-D無差別級王座などインディー団体のチャンピオンベルトをいくつも獲得した関本。ただ、強いだけでなく彼の試合は、幾度も名勝負を生んできた。たとえ試合に負けたとしても、圧倒的な存在感を示す。だからこそ関本大介というプロレスラーはファンを引きつける。それが彼の流儀だからだ。

(最終回につづく)
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関本大介(せきもと・だいすけ)プロフィール>
1980年2月9日、大阪府生まれ。小学3年で野球をはじめ、中学・高校は高知の明徳義塾へ進んだ。高校在学時、チームは4度甲子園に出場したが、ベンチ入りはかなわなかった。高校卒業後、大日本プロレスに入団。99年8月にデビューすると、01年1月にMEN’SテイオーとのタッグでBJW認定タッグ王座に史上最年少(19歳11カ月)で輝いた。11年3月には岡林裕二と組み、征矢学&真田聖也に挑戦し、全日本のアジアタッグ王座を奪取した。同年の8月には、ZERO1の火祭りリーグ戦を制し、NWAプレミアムヘビー級王者となる。今年3月にBJW認定世界ヘビー級王座のベルト獲得し、現在7度の防衛に成功している。07年にプロレス大賞技能賞を、11年には岡林と最優秀タッグチーム賞を受賞しており、所属の大日本のみならず他団体にも活躍の場を広げているインディー屈指のレスラー。身長175センチ、体重120キロ。


(文・写真/杉浦泰介)


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