与田剛(野球解説者)<後編>「音が違った野茂、潮崎のピッチング」
二宮: 与田さんは大豊作と言われた1990年入団組です。1位指名で野茂英雄投手、佐々木主浩投手、佐々岡真司投手、潮崎哲也投手、小宮山悟投手、西村龍次投手、葛西稔投手……。2位指名でも古田敦也捕手らそうそうたる顔ぶれでした。
与田: ドラフト同期だけでなく、昭和40年生まれの同級生にも古田、水野雄仁、池山隆寛、星野伸之、八木裕などがいます。忘れてはいけないのは山本昌。まだ現役で投げていますから、もう“生きた化石”ですよ(笑)。
[size=medium] 継続が生んだ豪速球[/size]
二宮: 各球団に力のある新人が並び立つ中、1年目から中日の抑えに定着。新人王に輝いたのだから価値があります。
与田: でも見事、“2年目のジンクス”にはまってしまいましたよね(苦笑)。高校、大学と大した実績がなく、ようやく社会人で日本代表に選ばれるようになって、すぐプロに入りましたからね。社会人(NTT東京)時代の監督はもう1年、残留させて安定感や体力をつけてからプロに送り出したかったようです。
二宮: でも、プロに行きたい気持ちはずっと抱いていたと?
与田: 最初は、プロは単なる憧れでした。むしろ高校、大学と進むにつれ、自分のレベルが分かってきて「プロ」という言葉は口にできなくなっていたんです。ただ、最後まで夢は捨てきれなかったんですね。
二宮: 武器は150キロ超の豪速球。ストレートには自信があったでしょう?
与田: 誰にも負けないという思いで当時はいましたね。僕は小さい頃から投げることが好きな子どもでした。中学の時に、レフトにまわされて背番号「7」をもらった時には、生意気にも「いりません」と言ったくらいです(笑)。でも、本当にピッチャーとして手応えをつかんだのは社会人になってから。指先でギュッとボールを押し、スピンをかけられるようになって球速が伸びました。
二宮: コツをつかんだきっかけは?
与田: これと言ったものは特にありません。社会人になって地道に継続して練習したことが突然、花開いた。一言でいえば「諦めなかった」ことになるのでしょうか。努力を続けられる場を社会人で設けていただいたことも僕にはありがたかったですね。
二宮: 当時の社会人は金属バットですから当たれば飛ぶ。ピッチャー不利な状況でバッターをねじ伏せられたことも自信につながったのでは?
与田: そうですね。前年にソウル五輪があった関係で、プロ入りを拒否した強打者が何人もいました。そんなレベルの選手が金属で打つから、めちゃくちゃ打球が速い。ピッチャー返しが直撃しそうになったことも何回かありました。だから、プロ入りにあたっては同期の社会人ピッチャーと「木のバット相手なら怖くないよ」と話していたほどです(笑)。
二宮: ピッチャーも先程名前を挙げたように、野茂投手、潮崎投手、佐々岡真司投手といったプロ注目の選手がいました。全日本に選ばれて、彼らと同じ土俵に立てたことも背中を押したのでは?
与田: 正直、一緒に日の丸をつけても同じレベルとは思えなかったですね。僕が代表に初めて選ばれたのは89年の春。ソウル五輪の代表だった野茂や潮崎と並んでキャッチボールをしました。僕が真ん中で右に野茂、左に潮崎。右を見ても左を見ても、すごいボールを投げている。ビックリするばかりで、キャッチボールに集中できませんでしたよ。
二宮: そのくらい代表でも飛びぬけた存在だったと?
与田: 彼らは高卒で社会人に来ているので、僕よりは3つ年下。僕の方が先輩ではあっても、ピッチャーとしては断然、彼らが上だと感じました。まず野茂は、体の大きさとフォームに圧倒されましたね。トルネードのフォームに入った瞬間、軸足のスパイクからギューと絞るような音が聞こえてくる。そこで蓄えた力を解き放って投げると、ボールからパーンと風を切る音がするんです。
二宮: なるほど。音からして全然違ったわけですね。
与田: 一方の潮崎は、実際に会うと華奢で童顔。普段はおとなしい若者なんですが、ユニホームを着ると人が変わったように、サイドスローからキレのあるボールを投げる。プシュ、プシュとこちらも音が鳴るんです。右の野茂からは大砲が発射され、左の潮崎はカミソリで切っている。そんな表現がピッタリでしたよ。
[size=medium] 人生を変えたキューバ戦[/size]
二宮: その3人のリレーでアマチュア最強と呼ばれたキューバ打線を1点に封じた試合がありました。89年5月、東京ドームでの一戦です。
与田: あのキューバ戦が僕の運命を大きく変えたと言えるでしょう。初戦で誰もが野茂先発と予想する中、当時の山中正竹監督が「与田、先発だ」と。「えっ?」と聞き直すと、「嫌なのか?」とニヤッと笑われたんです。「いやいや、ぜひやらせてください」というわけで先発することになりました。その時のプレッシャーは野球人生でも一番だったでしょうね。野茂が投げると皆が思っている中で出ていく上に、前日は東芝がキューバと親善試合をして勝っている。「絶対にいいピッチングをしなくては」という気持ちでした。
二宮: チャンスをモノにして好投し、3回をわずか1安打。プロのスカウトの評価がさらに高まりました。
与田: プロのスカウトも最初は僕がお目当てではなかったはずです。でも、野茂が途中で投げる可能性があるから、試合を見ておかないといけない。後からスカウトの方には「あのキューバ戦が良かった」という話を耳にしました。成長している自覚はありませんでしたが、高いレベルで野球をやることによって、知らず知らずのうちにトップ選手との差が縮まっていた。「僕でもやれるんだ」という自信が生まれました。僕を先発にして、潮崎や野茂をリリーフにした山中監督の“演出”には本当に感謝しています。
二宮: そしてドラフト会議では野茂投手に8球団が競合した中、中日が与田さんを単独指名しました。
与田: まったく予想外でした。良くてハズレ1位だと思っていましたから。ただ、中日はスカウトの方が常に3人来られて、とても熱心だったんです。野茂のすごさは僕自身も分かっていましたから、それでも僕を指名してくれたことが、どんな意味を持つのかは言われなくても理解できます。だから、ものすごく感激しましたね。
二宮: 社会人から鳴り物入りで入って、春のキャンプで実際にプロのピッチャーと一緒に練習した時は、どう感じましたか。
与田: コントロールの良さには驚きましたね。特にベテランの西本聖さん。ストレートはもちろん、シュートやカーブを同じところに投げ続けられる。他のピッチャーもボールの出し入れに長けていて、「これがプロか」と思いました。
二宮: 1年目から抑えを任されますが、最初から「クローザーもある」という話だったのでしょうか。
与田: いえいえ。最初は先発の予定でした。ところが抑えだった郭源治さんが開幕直後に故障で離脱して、星野仙一監督に呼ばれて「抑えをやれ」と言われました。最後を任された経験なんてなかったし、一瞬、とまどいましたが、よく考えてみれば、今までやってないことをプロの1年目からできるなんてすごい話。星野さんに向かって「嫌です」とも言えませんから(苦笑)、「やらせてください!」と返事をしました。
[size=medium] 後進のためにもテスト受験[/size]
二宮: 残念ながら2年目以降はケガもあって、思うようなピッチングができなくなります。1年目にフル回転した疲労も影響したのでしょうか。
与田: それは違うと思います。1年目だって50試合の登板で、今の中継ぎ、抑えのピッチャーと比べれば、そんなにたくさん投げているわけではありません。疲労といっても、結局は故障しない体づくり、フォームづくり、自己管理ができなかった。そこが一流ピッチャーとの差だったと反省しています。
二宮: 1年目で脚光を浴びても、それからはなかなか満足に投げられない。キャンプなどで取材に行っても、苦悩している姿が印象的でした。
与田: 今になって振り返ると、「こんなはずじゃない」と思うだけじゃなくて、もっとやれることがあったのではないかと感じますね。僕のスタイルは速い球しか勝負の選択肢がなかった。でも、実際にプロでやってみると、コンスタントに成績を残しているピッチャーは年々、変化球を身につけたり、コントロールを磨いたり、変わっていく。僕は自分の武器である速球を元に戻さなくてはいけない、維持しなくてはいけないという発想にとらわれすぎて、引き出しを増やす方向に考え方を転換できませんでした。
二宮: 96年途中に千葉ロッテに移籍するも1軍登板がなく、97年オフには戦力外になりました。それでも現役続行の望みをかけて日本ハムのテストを受験します。
与田: 当時、新人王経験者がテストまで受けて現役を続けようとするのは初めてだったそうです。周囲に相談しても「新人王も獲ったのにやめろ」という人がほとんどでした。でも、それで後悔していないかといったら、みんな悔いが残っている。それなら、余計に僕がテストを受ける価値があると考えました。新人王だろうが、タイトルホルダーであろうが、堂々とテストを受ける環境になれば、今後、新たなチャンスを開く選手が出てくるかもしれない。それは選手のみならず、野球界にとってもプラスになると感じたんです。
二宮: テストに合格して入団後も、ヒジの手術を受け、投げられない日々が続きました。
与田: 日本ハムではほとんど2軍暮らしでしたけど、若い選手と一緒に汗を流して発見したこともありました。そんな若手のひとりが来季から中日に移籍する小笠原道大です。僕が2軍の鎌ヶ谷の施設でリハビリをしていると、彼がひとりで黙々とバッティング練習をしている。1軍で成績を残すだけでなく、たとえ2軍であっても、ひたむきに野球に取り組むことの尊さを教わりました。その頃から、僕自身、視野も広がって人間的に成長できたように思うんです。
[size=medium] もう一度、現場で燃えたい[/size]
二宮: 翌99年オフ、再び戦力外通告を受け、00年には野村克也監督率いる阪神へ。しかし、1軍で投げる機会はなく引退を決意します。野球への未練はありませんでしたか。
与田: あの時は今まで味わったことのない不思議な感覚でした。ものすごく寂しいのに、ものすごくホッとしている。背反する気持ちが同居していたんです。僕の場合は厳密に言うと、自分から引退を決断したのではなく、阪神からも戦力外になって現役を続ける道がなくなってしまった。「こんな終わり方なのか……」という悔しさをひとりで噛みしめつつ、一晩を過ごして起きてみると、ものすごく晴れやかなんです。もう当時は体がボロボロで、毎日、ヒジ、肩、ヒザの状態をチェックして痛み止めを飲んでいました。「今日から、それをしなくていいんだ」と気づいた瞬間、とてつもない解放感に襲われましたね。またベッドに入って二度寝してしまったほどです(笑)。
二宮: 引退直後の選手に話を訊くと、もうプレーができない寂しさと、もう練習や体のことを気にしなくていい喜びとが両方混ざった感覚だといいますね。
与田: これがプロとして野球をやることなんだなと初めて気づきました。好きでやっていた野球が、お金をもらって仕事になることで、「好き」だけでは続けられなくなる。いろんなものを背負ってでも、プレーをしなくてはならない立場がプロ。だから、寂しくもあり、安堵もしたのでしょう。
二宮: もちろんプロで活躍するに越したことはありませんが、悩み苦しんだからこそ見つけられたこともあったと?
与田: そうですね。長く第一線を張れる人間と、自分のように短期間の活躍で終わってしまう人間は、どこに違いがあるのか。自分自身を見つめるには、いい時間だったのかもしれません。現役を退いて13年経ってみて、徐々に「楽しい野球人生だった」と思えるようになってきました。これからも現役時代に学んだことをムダにしない生き方をしていきたいです。
二宮: 「そば雲海 黒麹」のSoba&Sodaもだいぶ進んできました。
与田: これは飲みやすいですね。クセもないので、どんな方にも受け入れられると思います。僕は決してお酒が強い方ではないのですが、焼酎は濃さを変えて楽しめるところがいい。また自分でソーダ割りをつくって、チビチビやってみたいですね。
二宮: ネット裏に仕事場を移してからは、試合の解説はもちろんNHK「サンデースポーツ」のキャスターも務めました。現役時代とは違ったやりがいもあるのでは?
与田: 生放送ですから限られた時間内で的確に、かつ間違えないようにコメントしなくていけませんし、一度、言葉にしてしまったものはやり直しがきかない。マウンド上で投げるのとは違った、いい意味での緊張感と楽しさがありますね。僕の場合、妻がアナウンサーでしたから、言葉づかいや正しい表現を、いろいろと教えてくれたのは感謝しています。たとえば、よく試合途中に「1点勝っている」「3点負けている」という表現を見聞きしますが、妻曰く「勝ち負けは結果なので、途中経過で使うのはふさわしくない」と。その話を聞いてから、僕も「1点リードしている」といった言い方を意識しています。
二宮: 一方で、WBCでコーチも経験し、どこかのチームで指導者をしたい気持ちもあるでしょう?
与田: ご縁があれば現場に戻りたい。それは素直な感情です。長く解説の仕事をやらせていただいて、今の仕事が決しておもしろくないわけではありません。ただ、WBCで独特の緊張感や、選手たちと一緒になって勝つ喜びを体感すると、やはり「もう一度、現場へ」という気持ちにスイッチが入る。現状は火がつきかけて、それを燃え上がらせることができないのがもどかしい……。50歳も近づいてきましたから、選手とキャッチボールがやれるうちにユニホームを着られたらうれしいですね。
(おわり)
<与田剛(よだ・つよし)プロフィール>
1965年12月4日、福岡県生まれ、千葉県出身。木更津中央高、亜細亜大、NTT東京を経て、1990年にドラフト1位で中日に入団。当時の日本最速となる157キロの剛速球を武器に、1年目で4勝5敗31セーブの成績を収め、新人王と最優秀救援投手賞に輝く。96年途中、千葉ロッテに移籍。98年には日本ハムにテスト入団し、再起をかけ、右肘を手術。リハビリの末、99年には1620日ぶりに1軍のマウンドに立ったものの、自由契約に。00年、野村監督の下、阪神にテスト入団し、同年限りで引退。その後、NHK解説者として『サンデースポーツ』のメインキャスターを務めるなど活躍中。09年にはWBCで日本代表の投手コーチとして世界一に貢献。今年3月のWBCでも再び侍ジャパンの投手コーチを務めた。
★今回の対談で楽しんだお酒★[/color]
本格焼酎「そば雲海」の黒麹仕込み「そば雲海 黒麹」。伝統の黒麹と九州山地の清冽な水で丹精込めて造り上げた、爽やかさの中に、すっきりと落ち着いた香り。そしてまろやかでコクのある味わいが特徴です。ソーダで割ることで華やかでスパイシーな香りと心地よい酸味が広がります。
提供/雲海酒造株式会社
<対談協力>
炉端ダイニング ぜん
東京都中央区日本橋小伝馬町13−1
TEL:03-5651-3331
営業時間:
平日昼 11:30〜14:00(L.O.13:45)
平日夜 17:00〜23:00(L.O.22:15)
土曜、日曜、祝日定休
☆プレゼント☆
与田剛さんの直筆サインボールを本格焼酎「そば雲海 黒麹」(900ml、アルコール度数25度)とともに読者3名様へプレゼント致します。ご希望の方はより、本文の最初に「与田剛さんのサイン希望」と明記の上、下記クイズの答え、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)、このコーナーへの感想や取り上げて欲しいゲストなどがあれば、お書き添えの上、送信してください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締切は来年1月9日(木)までです。たくさんのご応募お待ちしております。なお、ご応募は20歳以上の方に限らせていただきます。
◎クイズ◎
今回、与田剛さんと楽しんだお酒の名前は?
お酒は20歳になってから。
お酒は楽しく適量を。
飲酒運転は絶対にやめましょう。
妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。
(構成・写真:石田洋之)
与田: ドラフト同期だけでなく、昭和40年生まれの同級生にも古田、水野雄仁、池山隆寛、星野伸之、八木裕などがいます。忘れてはいけないのは山本昌。まだ現役で投げていますから、もう“生きた化石”ですよ(笑)。
[size=medium] 継続が生んだ豪速球[/size]
二宮: 各球団に力のある新人が並び立つ中、1年目から中日の抑えに定着。新人王に輝いたのだから価値があります。
与田: でも見事、“2年目のジンクス”にはまってしまいましたよね(苦笑)。高校、大学と大した実績がなく、ようやく社会人で日本代表に選ばれるようになって、すぐプロに入りましたからね。社会人(NTT東京)時代の監督はもう1年、残留させて安定感や体力をつけてからプロに送り出したかったようです。
二宮: でも、プロに行きたい気持ちはずっと抱いていたと?
与田: 最初は、プロは単なる憧れでした。むしろ高校、大学と進むにつれ、自分のレベルが分かってきて「プロ」という言葉は口にできなくなっていたんです。ただ、最後まで夢は捨てきれなかったんですね。
二宮: 武器は150キロ超の豪速球。ストレートには自信があったでしょう?
与田: 誰にも負けないという思いで当時はいましたね。僕は小さい頃から投げることが好きな子どもでした。中学の時に、レフトにまわされて背番号「7」をもらった時には、生意気にも「いりません」と言ったくらいです(笑)。でも、本当にピッチャーとして手応えをつかんだのは社会人になってから。指先でギュッとボールを押し、スピンをかけられるようになって球速が伸びました。
二宮: コツをつかんだきっかけは?
与田: これと言ったものは特にありません。社会人になって地道に継続して練習したことが突然、花開いた。一言でいえば「諦めなかった」ことになるのでしょうか。努力を続けられる場を社会人で設けていただいたことも僕にはありがたかったですね。
二宮: 当時の社会人は金属バットですから当たれば飛ぶ。ピッチャー不利な状況でバッターをねじ伏せられたことも自信につながったのでは?
与田: そうですね。前年にソウル五輪があった関係で、プロ入りを拒否した強打者が何人もいました。そんなレベルの選手が金属で打つから、めちゃくちゃ打球が速い。ピッチャー返しが直撃しそうになったことも何回かありました。だから、プロ入りにあたっては同期の社会人ピッチャーと「木のバット相手なら怖くないよ」と話していたほどです(笑)。
二宮: ピッチャーも先程名前を挙げたように、野茂投手、潮崎投手、佐々岡真司投手といったプロ注目の選手がいました。全日本に選ばれて、彼らと同じ土俵に立てたことも背中を押したのでは?
与田: 正直、一緒に日の丸をつけても同じレベルとは思えなかったですね。僕が代表に初めて選ばれたのは89年の春。ソウル五輪の代表だった野茂や潮崎と並んでキャッチボールをしました。僕が真ん中で右に野茂、左に潮崎。右を見ても左を見ても、すごいボールを投げている。ビックリするばかりで、キャッチボールに集中できませんでしたよ。
二宮: そのくらい代表でも飛びぬけた存在だったと?
与田: 彼らは高卒で社会人に来ているので、僕よりは3つ年下。僕の方が先輩ではあっても、ピッチャーとしては断然、彼らが上だと感じました。まず野茂は、体の大きさとフォームに圧倒されましたね。トルネードのフォームに入った瞬間、軸足のスパイクからギューと絞るような音が聞こえてくる。そこで蓄えた力を解き放って投げると、ボールからパーンと風を切る音がするんです。
二宮: なるほど。音からして全然違ったわけですね。
与田: 一方の潮崎は、実際に会うと華奢で童顔。普段はおとなしい若者なんですが、ユニホームを着ると人が変わったように、サイドスローからキレのあるボールを投げる。プシュ、プシュとこちらも音が鳴るんです。右の野茂からは大砲が発射され、左の潮崎はカミソリで切っている。そんな表現がピッタリでしたよ。
[size=medium] 人生を変えたキューバ戦[/size]
二宮: その3人のリレーでアマチュア最強と呼ばれたキューバ打線を1点に封じた試合がありました。89年5月、東京ドームでの一戦です。
与田: あのキューバ戦が僕の運命を大きく変えたと言えるでしょう。初戦で誰もが野茂先発と予想する中、当時の山中正竹監督が「与田、先発だ」と。「えっ?」と聞き直すと、「嫌なのか?」とニヤッと笑われたんです。「いやいや、ぜひやらせてください」というわけで先発することになりました。その時のプレッシャーは野球人生でも一番だったでしょうね。野茂が投げると皆が思っている中で出ていく上に、前日は東芝がキューバと親善試合をして勝っている。「絶対にいいピッチングをしなくては」という気持ちでした。
二宮: チャンスをモノにして好投し、3回をわずか1安打。プロのスカウトの評価がさらに高まりました。
与田: プロのスカウトも最初は僕がお目当てではなかったはずです。でも、野茂が途中で投げる可能性があるから、試合を見ておかないといけない。後からスカウトの方には「あのキューバ戦が良かった」という話を耳にしました。成長している自覚はありませんでしたが、高いレベルで野球をやることによって、知らず知らずのうちにトップ選手との差が縮まっていた。「僕でもやれるんだ」という自信が生まれました。僕を先発にして、潮崎や野茂をリリーフにした山中監督の“演出”には本当に感謝しています。
二宮: そしてドラフト会議では野茂投手に8球団が競合した中、中日が与田さんを単独指名しました。
与田: まったく予想外でした。良くてハズレ1位だと思っていましたから。ただ、中日はスカウトの方が常に3人来られて、とても熱心だったんです。野茂のすごさは僕自身も分かっていましたから、それでも僕を指名してくれたことが、どんな意味を持つのかは言われなくても理解できます。だから、ものすごく感激しましたね。
二宮: 社会人から鳴り物入りで入って、春のキャンプで実際にプロのピッチャーと一緒に練習した時は、どう感じましたか。
与田: コントロールの良さには驚きましたね。特にベテランの西本聖さん。ストレートはもちろん、シュートやカーブを同じところに投げ続けられる。他のピッチャーもボールの出し入れに長けていて、「これがプロか」と思いました。
二宮: 1年目から抑えを任されますが、最初から「クローザーもある」という話だったのでしょうか。
与田: いえいえ。最初は先発の予定でした。ところが抑えだった郭源治さんが開幕直後に故障で離脱して、星野仙一監督に呼ばれて「抑えをやれ」と言われました。最後を任された経験なんてなかったし、一瞬、とまどいましたが、よく考えてみれば、今までやってないことをプロの1年目からできるなんてすごい話。星野さんに向かって「嫌です」とも言えませんから(苦笑)、「やらせてください!」と返事をしました。
[size=medium] 後進のためにもテスト受験[/size]
二宮: 残念ながら2年目以降はケガもあって、思うようなピッチングができなくなります。1年目にフル回転した疲労も影響したのでしょうか。
与田: それは違うと思います。1年目だって50試合の登板で、今の中継ぎ、抑えのピッチャーと比べれば、そんなにたくさん投げているわけではありません。疲労といっても、結局は故障しない体づくり、フォームづくり、自己管理ができなかった。そこが一流ピッチャーとの差だったと反省しています。
二宮: 1年目で脚光を浴びても、それからはなかなか満足に投げられない。キャンプなどで取材に行っても、苦悩している姿が印象的でした。
与田: 今になって振り返ると、「こんなはずじゃない」と思うだけじゃなくて、もっとやれることがあったのではないかと感じますね。僕のスタイルは速い球しか勝負の選択肢がなかった。でも、実際にプロでやってみると、コンスタントに成績を残しているピッチャーは年々、変化球を身につけたり、コントロールを磨いたり、変わっていく。僕は自分の武器である速球を元に戻さなくてはいけない、維持しなくてはいけないという発想にとらわれすぎて、引き出しを増やす方向に考え方を転換できませんでした。
二宮: 96年途中に千葉ロッテに移籍するも1軍登板がなく、97年オフには戦力外になりました。それでも現役続行の望みをかけて日本ハムのテストを受験します。
与田: 当時、新人王経験者がテストまで受けて現役を続けようとするのは初めてだったそうです。周囲に相談しても「新人王も獲ったのにやめろ」という人がほとんどでした。でも、それで後悔していないかといったら、みんな悔いが残っている。それなら、余計に僕がテストを受ける価値があると考えました。新人王だろうが、タイトルホルダーであろうが、堂々とテストを受ける環境になれば、今後、新たなチャンスを開く選手が出てくるかもしれない。それは選手のみならず、野球界にとってもプラスになると感じたんです。
二宮: テストに合格して入団後も、ヒジの手術を受け、投げられない日々が続きました。
与田: 日本ハムではほとんど2軍暮らしでしたけど、若い選手と一緒に汗を流して発見したこともありました。そんな若手のひとりが来季から中日に移籍する小笠原道大です。僕が2軍の鎌ヶ谷の施設でリハビリをしていると、彼がひとりで黙々とバッティング練習をしている。1軍で成績を残すだけでなく、たとえ2軍であっても、ひたむきに野球に取り組むことの尊さを教わりました。その頃から、僕自身、視野も広がって人間的に成長できたように思うんです。
[size=medium] もう一度、現場で燃えたい[/size]
二宮: 翌99年オフ、再び戦力外通告を受け、00年には野村克也監督率いる阪神へ。しかし、1軍で投げる機会はなく引退を決意します。野球への未練はありませんでしたか。
与田: あの時は今まで味わったことのない不思議な感覚でした。ものすごく寂しいのに、ものすごくホッとしている。背反する気持ちが同居していたんです。僕の場合は厳密に言うと、自分から引退を決断したのではなく、阪神からも戦力外になって現役を続ける道がなくなってしまった。「こんな終わり方なのか……」という悔しさをひとりで噛みしめつつ、一晩を過ごして起きてみると、ものすごく晴れやかなんです。もう当時は体がボロボロで、毎日、ヒジ、肩、ヒザの状態をチェックして痛み止めを飲んでいました。「今日から、それをしなくていいんだ」と気づいた瞬間、とてつもない解放感に襲われましたね。またベッドに入って二度寝してしまったほどです(笑)。
二宮: 引退直後の選手に話を訊くと、もうプレーができない寂しさと、もう練習や体のことを気にしなくていい喜びとが両方混ざった感覚だといいますね。
与田: これがプロとして野球をやることなんだなと初めて気づきました。好きでやっていた野球が、お金をもらって仕事になることで、「好き」だけでは続けられなくなる。いろんなものを背負ってでも、プレーをしなくてはならない立場がプロ。だから、寂しくもあり、安堵もしたのでしょう。
二宮: もちろんプロで活躍するに越したことはありませんが、悩み苦しんだからこそ見つけられたこともあったと?
与田: そうですね。長く第一線を張れる人間と、自分のように短期間の活躍で終わってしまう人間は、どこに違いがあるのか。自分自身を見つめるには、いい時間だったのかもしれません。現役を退いて13年経ってみて、徐々に「楽しい野球人生だった」と思えるようになってきました。これからも現役時代に学んだことをムダにしない生き方をしていきたいです。
二宮: 「そば雲海 黒麹」のSoba&Sodaもだいぶ進んできました。
与田: これは飲みやすいですね。クセもないので、どんな方にも受け入れられると思います。僕は決してお酒が強い方ではないのですが、焼酎は濃さを変えて楽しめるところがいい。また自分でソーダ割りをつくって、チビチビやってみたいですね。
二宮: ネット裏に仕事場を移してからは、試合の解説はもちろんNHK「サンデースポーツ」のキャスターも務めました。現役時代とは違ったやりがいもあるのでは?
与田: 生放送ですから限られた時間内で的確に、かつ間違えないようにコメントしなくていけませんし、一度、言葉にしてしまったものはやり直しがきかない。マウンド上で投げるのとは違った、いい意味での緊張感と楽しさがありますね。僕の場合、妻がアナウンサーでしたから、言葉づかいや正しい表現を、いろいろと教えてくれたのは感謝しています。たとえば、よく試合途中に「1点勝っている」「3点負けている」という表現を見聞きしますが、妻曰く「勝ち負けは結果なので、途中経過で使うのはふさわしくない」と。その話を聞いてから、僕も「1点リードしている」といった言い方を意識しています。
二宮: 一方で、WBCでコーチも経験し、どこかのチームで指導者をしたい気持ちもあるでしょう?
与田: ご縁があれば現場に戻りたい。それは素直な感情です。長く解説の仕事をやらせていただいて、今の仕事が決しておもしろくないわけではありません。ただ、WBCで独特の緊張感や、選手たちと一緒になって勝つ喜びを体感すると、やはり「もう一度、現場へ」という気持ちにスイッチが入る。現状は火がつきかけて、それを燃え上がらせることができないのがもどかしい……。50歳も近づいてきましたから、選手とキャッチボールがやれるうちにユニホームを着られたらうれしいですね。
(おわり)
<与田剛(よだ・つよし)プロフィール>
1965年12月4日、福岡県生まれ、千葉県出身。木更津中央高、亜細亜大、NTT東京を経て、1990年にドラフト1位で中日に入団。当時の日本最速となる157キロの剛速球を武器に、1年目で4勝5敗31セーブの成績を収め、新人王と最優秀救援投手賞に輝く。96年途中、千葉ロッテに移籍。98年には日本ハムにテスト入団し、再起をかけ、右肘を手術。リハビリの末、99年には1620日ぶりに1軍のマウンドに立ったものの、自由契約に。00年、野村監督の下、阪神にテスト入団し、同年限りで引退。その後、NHK解説者として『サンデースポーツ』のメインキャスターを務めるなど活躍中。09年にはWBCで日本代表の投手コーチとして世界一に貢献。今年3月のWBCでも再び侍ジャパンの投手コーチを務めた。
★今回の対談で楽しんだお酒★[/color]
本格焼酎「そば雲海」の黒麹仕込み「そば雲海 黒麹」。伝統の黒麹と九州山地の清冽な水で丹精込めて造り上げた、爽やかさの中に、すっきりと落ち着いた香り。そしてまろやかでコクのある味わいが特徴です。ソーダで割ることで華やかでスパイシーな香りと心地よい酸味が広がります。
提供/雲海酒造株式会社
<対談協力>
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東京都中央区日本橋小伝馬町13−1
TEL:03-5651-3331
営業時間:
平日昼 11:30〜14:00(L.O.13:45)
平日夜 17:00〜23:00(L.O.22:15)
土曜、日曜、祝日定休
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◎クイズ◎
今回、与田剛さんと楽しんだお酒の名前は?
お酒は20歳になってから。
お酒は楽しく適量を。
飲酒運転は絶対にやめましょう。
妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。
(構成・写真:石田洋之)