デビューから2連勝し、順風満帆に見えた石本康隆だったが、タイトル挑戦までは10年もの月日を費やした。所属する帝拳ジムでは、チャンピオンのみが専用のロッカーを所有できる。他のボクサーたちが次々と自らのネームプレートを空きのロッカーに入れていく中、石本は「自分もいつかは」と思いを募らせながら、空いているロッカーを探す日々が続いたのだった。


 石本はデビュー3戦目で、プロ2戦目で20歳の芹江匡晋(伴流)に初黒星を喫すると、次の試合にも敗れた。初めての連敗に、彼は自分に足りない部分を見つめ直した。「序盤に相手を見てしまう癖があるんです。自分のビビリなところ、気持ちの弱さですね」。石本の課題は“スロースターター”であることだった。試合になると、緊張などでエンジンがかかるのが遅いのだ。そこで「先手を取り、相手がやりづらいボクシングをしよう」と意識をして試合に臨むようにした。すると、続くスーパーフライ級4回戦では2ラウンドKO勝ちを収めた。

 プロ4年目の2005年には同級の東日本新人王戦に出場した。3連勝で決勝まで上りつめた。対戦相手は杉田純一郎(ヨネクラ)。スーパーバンタム級の弟・祐次郎との史上初の双子同時優勝を目指していたこともあり、マスコミの注目度は高かった。会場の後楽園ホールの雰囲気も、杉田側に傾いていた。「だからこそ相手以上に攻めないといけない。もっときつく攻めるべきでした」と石本。結果は0−2の判定負けだった。

 その後は1階級上のバンタム級に転向。06年8月から4連勝するが、後にWBC世界スーパーフライ級チャンピオンとなる佐藤洋太(協栄)に判定で敗れ、連勝はストップした。なかなか波に乗れない石本は、さらに1階級上げ、スーパーバンタム級での挑戦を決意した。

 ライバルと切磋琢磨し、掴んだチャンス

 この時、石本にはライバルと言える存在がいた。彼が上京した頃に、同じように香川県高松市を飛び立った友人の前田吉朗(パンクラス稲垣組)である。中学校時代の同級生で同じ卓球部に所属し、高校も石本が中退するまでは一緒だった。「悪いこともいっぱいしましたね」という“悪友”は大阪で総合格闘家になった。パンクラスやDEEPで名を馳せ、PRIDEやDREAMなど、全国でテレビ中継される規模の大きな興行にも出場した。

「吉朗の方がすぐ有名になって、地元でもまわりは“前田、前田”と騒いでいました。はじめは彼に対して劣等感がすごくあったのですが、何年ぶりかに再会して話してみると共感できる部分が沢山あった。それでお互いに応援するようになったんです」
 石本は3年前のブログで前田について、こう記している。
<よき仲間には間違いないけどよきライバルでもある>
 そして、こう続けた。
<仲間の勝利が嬉しくて悔しい>

 同じ格闘家である前田の活躍は、当然、石本を刺激した。11年には日本ランカーがタイトルの挑戦権を争奪するトーナメント「最強後楽園」に出場。10月に行われた決勝では塩谷悠(川島)を判定で下し、優勝を果たした。技能賞を獲得するおまけ付きだった。「内容的にも良かった。賞までいただけて、思い出深い大会ですね」

 あくまで挑戦権を獲得するトーナメントであるため、ベルトはなかったが、優勝者の石本にはペナントが贈られた。
「新人王は勝てなかったので初めての優勝でした。小学生の頃やっていたサッカーでも、決勝までいったことがなかった。初めて1番になったんです」

 これで石本はスーパーバンタム級転向後、破竹の7連勝となった。日本ランキングは1位となり、彼の上にいるのはチャンピオンのみだった。これまで所属ジムでは西岡利晃、下田昭文と同じ階級で世界を獲ったボクサーのスパーリングパートナーを務めてきた。“影の男”と言われたこともあった石本が、ようやくスポットライトを浴びる舞台へと飛び出した。

 リベンジを懸けた初のベルト挑戦

 12年2月、ついに掴んだ日本タイトルへの挑戦権。プロ10年目、30歳にして初のタイトルマッチだった。石本は「最初で最後のチャンス」という覚悟で臨んだ。慣れ親しんだ後楽園ホールで対戦する相手は、石本にプロ初黒星をつけた芹江。変則的な攻撃を繰り出す試合巧者の芹江は、ここまで5度の防衛を誇るチャンピオンとなっていた。石本にしてみれば、ベルト獲得に加えて、リベンジのチャンスでもあった。

 ところが、この大一番で石本の悪癖である“スロースターター”が顔を覗かせた。硬さが見られる序盤は芹江に攻め込まれた。3ラウンド以降は挽回したが、終盤で再び押し込まれ、判定は0−3と完敗だった。
「僕は日本ランキング入りするのもすごく遅かった。タイトル挑戦にも10年かかったので、“やっと来た”という貴重なチャンスだったんです。なのに、その試合で自分の力を100%発揮できなかった。チャレンジャーなんだから、攻める気持ちがないといけなかった。たとえ僕が足を使うタイプであっても、攻めるという気持ちが大前提にないとベルトは獲れなかったんです。芹江選手の巧さももちろんありましたが、何より気持ちの面で負けてしまいました」

 試合後、控室で石本は田中繊大トレーナーに怒鳴られた。いつもは冗談ばかり言う田中が激高する姿を見て、「僕はこの人ほど自分の勝利を信じていなかった」と気付かされた。石本は自分が情けなくて泣いた。「男は人前で泣くものじゃない」。そんな父親の背中を見て育った石本だったが、この時ばかりは瞳からこぼれ落ちるものを、抑えることはできなかった。

 彼の脳裡には「引退」という文字が過った。それは過去5回の敗戦の時よりも、色濃いものだった。石本は試合後の2、3週間、さまざまな人に会った。時には励まされ、時には怒られたりもした。一度、ボクシングから離れてみたが、“不完全燃焼”という胸の中のしこりが消えることはなかった。
「この先、技術が伸びるかわからない。それでも、もう1回、本当の意味でチャレンジしてみたい。前に行くんだ」
 この時を境に、石本は生まれ変わっていった――。

(最終回につづく)
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石本康隆(いしもと・やすたか)プロフィール>
1981年10月10日、香川県生まれ。中学2年でボクシングをはじめ、アマチュアでは1戦1敗。02年2月、20歳で上京し、帝拳ジムに入門する。同年7月にプロテストに合格し、11月に後楽園ホールでデビューを果たした。05年にはスーパーフライ級で東日本新人王決定戦準優勝。11年には、スーパーバンタム級で日本タイトル挑戦権獲得トーナメント“最強後楽園”で優勝し、日本タイトルへの挑戦権を奪取した。しかし、翌年2月の日本同級タイトルマッチでは判定で敗れ、ベルト獲得はならなかった。12年4月に、WBOインターナショナル・同級タイトルマッチで勝利し、王座を獲得。現在は、スーパーバンタム級でWBO世界7位、日本3位。右ボクサーファイター。29戦23勝(6KO)6敗。
>>ブログ「まぁーライオン日記〜最終章〜」



(文・写真/杉浦泰介)


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