5月12〜18日、福岡県飯塚市で第30回飯塚国際車いすテニス大会(通称:ジャパンオープン)が開催されました。シングルスで優勝したのは、男子は国枝慎吾選手、女子は上地結衣選手。同大会では初の日本人アベック優勝という最高の結果となりました。しかも、大会前は世界ランキング2位だった上地選手がその優勝で1位となり、世界王者であり続けている国枝選手とともに、ランキングにおいても日本人選手がともに1位となりました。
(写真:30回を迎えたジャパンオープン。今年も笑顔があふれた大会となった)
 NPO法人STANDではNECとの協働で、最終日に行なわれた男女シングルス決勝の模様をインターネットライブ「モバチュウ」で配信しました。日本の車いすテニス界にとっての歴史的快挙を世界に配信することができたことを、本当に嬉しく思います。

「モバチュウ」でジャパンオープンを配信するようになって、今年で6年目となりました。年々、私のジャパンオープンへの思い入れは強さを増しています。毎年春になると、飯塚を訪れる日がやってくるのが楽しみで仕方ないのです。自分でも不思議になるほど、ワクワクした気持ちになります。その気持ちは、単にレベルの高い国際大会を目にすることができる、というだけではないような気がしていました。

 今回、改めて感じたのは、他の大会にはない、ジャパンオープン独特の雰囲気に魅力を感じているのだということです。選手、主催者、オフィシャル、審判、ボランティア、観客……そこに集まる人たちが生み出す会場の雰囲気が、私を心地よくさせてくれるのです。それは選手にとっても言えます。

(写真:海外選手からも人気の自衛隊員。“安全”と“安心”を提供している)
 海外選手にとって、飯塚市は決して立地のいい会場とは言えません。成田空港や羽田空港を経由し、飛行機や新幹線で福岡へ。さらにそこから車で約1時間ほどかかるため、不便と言わざるをえません。それでも海外の大会と比べても、選手からは非常に人気が高いのです。2008年に国際テニス連盟(ITF)が選手、コーチに行なった調査では、世界で約150ある車いすテニスの大会中、ジャパンオープンは2位でした。海外選手にとって、「イイヅカ」は不便さを補って余りある居心地良さがあるのです。

 その要因のひとつに、地元自衛隊員の支援があげられます。大会期間中、陸上自衛隊飯塚駐屯地の隊員が、会場とホテルを往復し、選手たちの送迎を行なうのですが、自衛隊という組織が持つ規律を持ち込んでくれることで会場全体が引き締まります。一般のボランティアの人だけではこの雰囲気はつくれません。また、自然な態度で接してくれることが、国内外の選手たちから非常に高く評価されているのです。そしてもうひとつ。自衛隊員の存在が安全を確保してくれているという安心感もまた、ジャパンオープンならではの居心地の良さを生み出してくれているのです。

 真のボランティア精神

 今回のジャパンオープンに行ってみて、気づいたことがありました。それは会場のレイアウトに雰囲気づくりの一部が隠されているのではないかという点です。会場の中央には試合のドローや結果が張り出された広場があります。その広場を中心に、大会本部、審判室、メインコート、インドアコート(雨天時使用)などがグルッと囲むようにして配置されているのです。

 ですから、広場にはいつも大勢の人たちが集まっています。選手やコーチ、大会関係者、ボランティアスタッフたちが情報交換や雑談などで盛り上がっている様子がいつも見れるのです。他の大会ではこういった光景を目にすることはありません。前田恵理大会会長に伺うと、「場所が狭いから、自然とそういう配置になるだけですよ」と言うのですが、このレイアウトがさまざまなコミュニケーションを生み出し、大会の雰囲気をつくりだす源になっているのです。

 また、ジャパンオープンの良さはボランティアスタッフの質の高さにもあります。私は今回で6回目となりましたが、これまで一度も嫌な態度をとるボランティアスタッフを見たことも、実際に接したこともありません。彼ら彼女らは、いつもにこやかで一生懸命なのです。その理由は、彼ら彼女らが「やらされている」からではなく自分から「やりたい」と思って参加しているからです。

 今大会、ボールパーソンを務めたある男子学生からも、そのことがわかる話を聞くことができました。ジャパンオープンでは地元大学のテニス部の学生がボールパーソンを務めます。みんな動きも表情もハツラツとしているのですが、その中でもひときわ元気のいい学生がいました。ジャパンオープンでは最後に優勝者と一緒に記念写真を撮るのがボールパーソンの恒例イベントとなっているのですが、上地選手の前に真っ先に座ったのも、その学生でした。

 あまりの元気の良さに私は思わず声をかけました。
「元気だねぇ!」
 すると、彼がこう語ってくれたのです。
「地元で海外の選手と直に触れ合うことのできるチャンスはめったにありません。だから、ジャパンオープンでボールパーソンをするのをすごく楽しみにしていたんです。それに僕は将来、テニスの審判になりたいと思っているので、ジャパンオープンはいい勉強になる。ここで国際大会の経験を積んで、2020年の東京パラリンピックには審判として参加したいと思っています」
(写真:いつも元気なボールパーソン。彼ら彼女らにとっても貴重な国際経験となっている)

 これぞまさにボランティア精神。彼からは内発的なエネルギーがあふれ出ていました。もちろん、他のボランティアスタッフも同じでしょう。受動的ではなく、能動的にボランティアに応募している人たちばかりが集まっている。だからこそ、選手をはじめ、会場を訪れる人たちが心地よく感じるのです。

 自然と湧き出る開催への情熱

 とはいえ、これまでスムーズに大会が運営されてきたわけではありません。30年の間には、何度も廃止や中止の危機が訪れたと聞きます。例えば、世界でSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行した03年には、こんな投書が寄せられたそうです。
<大会を開催することによって、九州で患者第1号を出したら、どう責任をとるつもりだ。中止をしろ>

 また、3月に東日本大震災が起こった11年には、各種スポーツ大会が中止・延期となり、日本中に「スポーツをしている場合ではない」という空気が蔓延していました。毎年協賛していただいている企業からも「今年は東北支援を優先したい」と断りの申し出が相次いだといいます。

 もちろん、SARSも震災も、人命にかかわることですから、「スポーツよりも大事なことがある」と言うのは当然のこと。前田会長もそのことを理解していたからこそ、とても悩んだことでしょう。それでもジャパンオープンを開催し続ける道を選びました。反対や厳しい状況の中においても、開催に踏み切った、その情熱はいったいどこからくるものだったのでしょうか。

「私にも、正直言ってわからないんです。でもね、どんなに苦しいことがあっても、どんなに悩んでも、結局答えはいつも一緒。『今年も絶対に開催しよう』という思いが湧き出てくるんです」
 そう前田会長は答えてくれました。これが嘘偽りのない気持ちなのです。

 前田会長はこんなことも語ってくれました。
「私はね、毎年大会が終わって、みんなが帰っていくのを見送る時、とても寂しい気持ちになるんです。『あぁ、飯塚まで本当によく来てくれたなぁ』と思うと、もういたたまれなくなるんですよ」

 それを聞いた時、私はこう思いました。ジャパンオープンに参加した人たちからは、「素晴らしい大会だった」「ありがとうございました。また来年、楽しみにしています」という言葉をよく聞きます。そんなふうに笑顔で帰っていく選手やボランティアスタッフたちのことを思うと、やはり前田会長は「どんなことがあっても、今年も絶対に大会をやろう!」という気持ちになるのでないだろうか、と。前田会長のジャパンオープンへの愛情は、正しいとか、間違っているとか、そんな風に割り切ったものではなく、自然に湧き出てくるものなのではないかと、私には思えるのです。

 中止危機を乗り越えた先の未来

 実は今、ジャパンオープンは大きな問題を抱えています。ITF(国際テニス連盟)主催の車いす国際大会は、世界で150以上あり、7ランクに分かれています。トップはグランドスラム4大会、その次にスーパーシリーズ(SS)6大会があります。ジャパンオープンは04年からSSのひとつとして格付けされているのです。

 SSであり続けるためには、いくつかの条件をクリアしなければいけません。試合運営のみならず、休憩場所や食事を摂る施設など、選手に与えられる環境もまた重要視されているのです。ジャパンオープンのメイン会場である筑豊ハイツテニスコートおよび県営筑豊緑地公園テニスコートには、筑豊ハイツという大会オフィシャルホテルが隣接しています。これまではそこで選手が宿泊したり食事を摂ることができました。しかし今、筑豊ハイツの存続が危ぶまれています。管理者である財団法人筑豊勤労者福祉協会の指定管理期間が来年度末に迫っているにもかかわらず、未だに16年度以降の方針が決まっていないのです。

 最も難しい問題とされているのは、筑豊ハイツの老朽化です。築44年になる筑豊ハイツは、現在の耐震基準に満たされていないこともあり、リフォームもしくは建て替えが必要です。5月18日付の「西日本新聞」によれば、費用は50億円とも100億円とも言われているのだそうです。SSであり続けるどころか、大会開催の危機に瀕していると言っても過言ではありません。

 ところが、前田会長は「困ったわねぇ」とは言うものの、中止にするつもりなどまったくありません。今回、30回を記念して大会1週間前には記念シンポジウムが開催されたのですが、前田会長は帰り際に「次の35周年は何をすればいいかなぁ。もっと盛り上がることをやれたらいいですね。何たって、20年東京パラリンピックの前年ですからね」と、既に5年後の話をしていたのです。つまり、前田会長の気持ちはもう決まっているのです。

 前田会長はこれまで何度も「とうとう中止にせざるを得ないかも……」という危機を乗り越えてきました。こっちの問題が解決したかと思えば、また新たな問題が浮上し、さらに思いもよらぬところから問題が発生する……それでも前田会長は、「絶対に開催するんだ」という信念を捨てずに、ここまできました。だから、私は心配していません。きっと、来年も再来年もジャパンオープンは開催されることでしょう。そして、1年1年歴史を刻み、さらに伝統ある大会へと発展していくはずなのです。

伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。障害者スポーツをスポーツとして捉えるサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。1991年に車いす陸上を観戦したことがきっかけとなり、障害者スポーツに携わるようになる。現在は国や地域、年齢、性別、障害、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション活動」を行なっている。その一環として障害者スポーツ事業を展開。コミュニティサイト「アスリート・ビレッジ」やインターネットライブ中継「モバチュウ」を運営している。2010年3月より障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を開設。障害者スポーツのスポーツとしての魅力を伝えることを目指している。著書には『ようこそ! 障害者スポーツへ〜パラリンピックを目指すアスリートたち〜』(廣済堂出版)がある。