中学生時代の畠田好章は、全国のタイトルとは無縁だった。“次期オリンピック選手”と期待を寄せる周囲と、「(五輪は)だいぶ遠かった」と感じる自己評価に大きな隔たりを感じ、やる気を失うことも少なくはなかった。小学4年から彼を指導していた中瀬健は、当時を振り返り「悪いサイクルが回っていた。成長し、いろいろと考える時期だった」と語る。なかなか練習にも身が入らず、不安を抱えたまま大会に臨んでいた。実力はあっても、それでは結果も出るはずがない。全国中学校体操競技選手権大会(全中)の個人総合では、2年時に2位、3年時は6位だった。同学年には大阪・清風中の田中光というライバルがいた。3年時に優勝したのは、田中の方だった。小学生時は全国大会優勝を経験していた畠田も、中学3年間でライバルに大きく差をつけられたかたちとなった。


 1988年4月、畠田は鳴門高校に入学した。鳴門体操クラブで指導を受けていた中瀬が、1年前には赴任していたからだ。1年後の夏には、徳島で全国高校総合体育大会(インターハイ)開催が決まっており、地元の期待は大きかった。畠田は得意とするあん馬、平行棒、鉄棒でE難度、G難度の技を極めるために日々、練習に没頭した。しかし、技を完成させることができない。焦り、苛立ちから中瀬とは毎日のようにぶつかり合ったという。

 その年、日本はソウル五輪に沸いていた。体操競技では、清風高校(大阪)3年の池谷幸雄と西川大輔が日本代表の団体銅メダルに貢献。華々しい舞台で躍動した“清風コンビ”はアイドル的な人気を博した。
 畠田にとって4年前のロサンゼルス五輪までは、遠い存在に過ぎなかった檜舞台。だが、池谷、西川という自分と年の近い2人の活躍によって、その距離はグッと近づいた。

 89年8月、地元でのインターハイで畠田は個人総合、種目別の平行棒と鉄棒で優勝した。それでもまだ畠田にとって、五輪が身近な目標と言えるものになったわけではなかった。「高校生だった池谷さんと西川さんがソウル五輪に出場したことで、五輪は確かに近付きました。でも、2人を除けば、代表選手は大学生や社会人ばかり。インターハイで優勝しても“もうちょっと頑張らないと”という気持でしたね」

“代表効果”でレベルアップ

 同月に行なわれた全日本ジュニア選手権でも個人総合を含め、3冠を達成した。それでも畠田は驕ることなく真摯に自らの技術を磨き続けた。すると翌年、更なる飛躍を見せる。7月のアジア競技大会(北京)の日本代表選考会を兼ねたNHK杯、畠田は個人総合で6位に入り、上位7人までの代表権を手にしたのだ。池谷、西川ら大学生に交じって、高校生でただひとりの代表入りだった。

 約1カ月後のインターハイでは、日本代表として臨む初めての大会。さらに連覇もかかっており、当然、1年前以上に周囲の期待も大きかった。それでもプレッシャーをモノともせず、個人総合と種目別の平行棒で連覇を達成。鉄棒こそ連覇を逃したものの、代わりに跳馬を制した。畠田にとって、“代表効果”はプラスに働いた。

 本人の証言。
「アジア大会の代表になれたので、池谷さんや西川さんと一緒に代表の合宿で練習を積んでいました。インターハイの優勝よりもアジア大会に比重を置いていた。もちろん、インターハイも大事なのですが、自分の中では代表に迷惑をかけちゃいけない、との思いが強かったんです。当然、練習の質自体もそれまでよりも高いレベルでした。だからこそ、インターハイでもいい結果が出たんだと思います」

 加えて同学年のライバルの存在も大きかったという。「代表には入っていなかったのですが、田中光がいたので、“しっかりやらなければ”という思いはありました」。油断をすれば、足元をすくわれる。同世代を相手にしても、気を引き締めて演技をしたことも勝因となった。

 10月のアジア大会ではメンバー最年少ながら団体戦の銀メダルに貢献。さらに種目別の鉄棒で銅メダルを獲得した。シニアの大会でも十分に通用することを証明した畠田は、11月の全日本選手権では、種目別の鉄棒で優勝を収める。畠田がフィニッシュの3回宙返りで着地を決めた瞬間、監督の中瀬は「感無量」だったという。高校生での全日本優勝は、史上2人目の快挙だった。

 日本代表に入り、国際大会でのメダル獲得、種目別の鉄棒で日本一となっても、畠田は浮かれることはなかった。代表では自分よりレベルの高い選手がズラリといたからだ。
「ただただ、必死でしたね。自分はギリギリで(代表に)入ったので、一番若いし、技術も体力も一番劣っていた。その中でなんとか試合でミスをしないように、皆の練習についていくだけでした。その環境が自分を強くしてくれたのだと思います」。メンバーに食らいついていくことで成長し、結果を出すことで、畠田は徐々に自信を得ていった。

 着地の重要性を実感

 高校卒業後、畠田は地元徳島を離れ、日本体育大学に進学した。言わずと知れた体操競技の名門である。その頃の畠田は、代表を経験したことで見据えるものも自然と高くなっていた。
「自分の中ではいっぱいいっぱいで、うまくなったという感覚はなかった。でも、日本代表に入り、アジア大会に出場できたことで、世界選手権代表を目指すようになっていました。当然、そこに行くための練習をするようになる。今まで代表合宿でやってきたことを踏まえ、普段の練習方法も変わっていきました。自分が強くなったという実感よりも、やらなければならないことが見えてきたという意識の部分で、それまでとは全然違っていたと思います」

 その年、畠田は、定めた目標をしっかりとクリアしてみせた。世界選手権の代表選考会の個人総合で4位に入った畠田は、代表入りを決めたのだ。9月、米国・インディアナポリスで開催された世界選手権、日本は団体では4位となった。畠田自身は個人種目で、個人総合10位、種目別はあん馬が4位、平行棒が6位だった。19歳の畠田にとって、初出場の世界選手権はどう映ったのか。
「団体ではメダルがとれそうでとれなかったのですが、個人としては内容的には悪くなかったと思います」

 世界選手権デビューは華々しいものではなかったが、種目別では2つの入賞を果たした。ただ、悔やんだのは種目別・平行棒での結果だった。「着地で止まっていれば、メダルが獲れていたかもしれない……」。6位とはいえ、上位とは僅かな差だった。畠田は着地の重みを、改めて痛感していた。

「7番手」からの巻き返し

 アジア大会、世界選手権と国際大会を経験し、着実にステップアップしていった畠田にとって、次なる目標は翌年に控えていたバルセロナ五輪(92年)だった。だが、冷静に自分の実力を分析した結果では「7番」。6人の代表枠に入りそうで入れない位置にいると見ていた。

 そして迎えた選考レース。畠田は2次予選を終えた時点で6番手に付けていた。自分より下の順位には日体大の先輩である相原豊がいた。両親が体操競技の五輪メダリストというサラブレッドで、実力的には畠田よりも上の選手だった。「普通に技を成功すれば相原さんは順位を上げて僕を抜かす可能性が高かった。そうすると、僕は7番。補欠となってしまうわけです」。当落線上にいた畠田。プレッシャーも少なくなかったはずだが、“できることをやるしかない”と開き直っていた。

 5月、最終選考会を兼ねたNHK杯は規定と自由の演技を2日に分けて行われた。初日の規定で同学年のライバル田中が平行棒で大きなミスをした。田中は4位から8位に転落。一方の畠田はミスなくまとめ、入れ替わるように4位に浮上した。7位の選手とは1点以上の差をつけており、畠田自身にもバルセロナへの道が見え始めていた。

「流れが自分の方に向いていた。そのチャンスをうまく掴むことができました」。畠田は最終日の自由演技でも安定したパフォーマンスを見せた。4位をキープし、ついに五輪行きを叶えた。ライバルのミスもあり、運が良かったといえるかもしれない。だが、冷静に自らの状況を見極め、できることに徹した畠田の勝利だった。

(第3回につづく)
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畠田好章(はたけだ・よしあき)プロフィール>
1972年5月12日、徳島県生まれ。小学2年で体操競技をはじめ、鳴門高校時代にインターハイ2連覇を達成。高校3年時、90年のアジア大会で初の代表入りを果たす。日本体育大学に進学後、92年のバルセロナ五輪に出場し、団体銅メダルに貢献した。93年の全日本選手権で個人総合初優勝。95年には2度目の優勝を果たした。同年の世界選手権では団体、鉄棒、あん馬でいずれも銀メダルを獲得。96年のアトランタ五輪にも出場した。2000年に現役を引退。指導者研修のための米国留学を経て、03年から日体大コーチとなり、内村航平をはじめとした数々のオリンピアンを指導した。



(文・写真/杉浦泰介)


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