「この子なら、将来必ずオリンピックに行ける!」。鳴門体操クラブの中瀬健は、小学5年の畠田好章が前日に負傷したのにも関わらず、全国大会を制した時に、そう確信したという。畠田は、中学時代は伸び悩むこともあったが、鳴門高校に進学後は順調に力を伸ばしていった。そして中瀬が抱いた予感は10年も経たぬうちに的中する。1992年8月、畠田は異国の地スペインへと旅立った。日の丸を背負い、バルセロナ五輪に出場したのだ――。
 当時、畠田はメンバー最年少の20歳だった。彼にとっては初めての五輪出場だったが、決して浮き足立つことはなかった。前年に米国・インディアナポリスでの世界選手権を経験していたことが大きかった。「試合自体に関しては“世界選手権とあまり変わらないな”という印象でしたね。確かにテレビや新聞などのマスコミの取材や、一般の人の関心具合が違いました。やはり4年に1度ということで、周囲が寄せる期待も大きいなと。でも、自分としては、初出場でよくわからない部分もあったので、世界選手権と同様に臨めました。だから“まわりはこれだけ騒ぐんだ”ぐらいの感じでしたね」

 緊張の度合いは、むしろ代表選考会の方が上だったという。「どちらもミスができない状況ではありますが、選考会はオリンピックに行けるか、行けないかでは大きく違ってくる。オリンピックに行ってしまえば、もうやるしかないですからね」。初出場の大舞台は、池谷幸雄、西川大輔など、前回のソウル五輪を経験した先輩についていくだけでよかった。

「メダルを獲ることが目標」だった団体戦。当時はEUN(旧ソビエト連邦)、中国の2強という勢力図だった。日本は不参加だった80年のモスクワ五輪を除けば、56年のメルボルン五輪からメダルを獲得していた。それを途切れさせるわけにはいかない。チームは難度を落としてでも、確実な技を披露して3位を獲りにいった。一方、畠田は「自分はいっぱいいっぱいで、(演技構成は)変えませんでした」と語る。自分の最高の演技をすることが、畠田にとっては最善の策だった。彼の活躍もあり、規定演技で狙い通りの3位につけた日本。自由演技でも皆がリスクを冒すことはなかった。金メダルのEUNと銀メダルの中国には及ばなかったが、最後までその座を守り抜いた。

 一方、個人戦で畠田は、個人総合、種目別の鉄棒とあん馬で決勝に進んだ。結果は個人総合が13位、鉄棒が5位タイ、あん馬が6位といずれも日本人トップの成績ではあったものの、表彰台には届かなった。種目別の鉄棒とあん馬では若干、着地が乱れた。鉄棒は2位タイの選手まで、わずか0.05点の差だった。
「内容自体は大きなミスもなく、いい試合ができました。でも結局、(91年の)世界選手権と同じで、着地で動いてしまった。鉄棒とあん馬は、きちっと止めておけばメダルだったかもしれません」。畠田は当時を、そう振り返り、こう続けた。「個人でメダルを獲りたかったですね。でも、そこまで自分を追い込めていなかったのかもしれません。着地を意識してきたはずなのに、本番で出せなかった……」

 20歳の夏は、少しほろ苦い思い出となった。それでも団体で勝ち取った銅メダルは、立派な勲章である。畠田はメダリストとなって帰国の途に就いた。「まだ若かったので、“4年後を目指して頑張ろう” “次こそ、個人でメダルを獲りたい”と、自分の中で目標ができました。そのためにも、まずは毎年の国際大会(世界選手権、アジア大会)で代表に入ること。そこから団体や個人のメダルを狙おうと考えていました」。スペインでの激闘を終えた畠田は、新たなスタートを切った。

 エースに成長、向けられる視線が変化

 同年、エースの池谷が引退した。それによって、代表常連となりつつあった畠田には、「次期エース」との声も上がっていた。その期待に応えるように翌年の全日本選手権では、個人総合と種目別鉄棒の2冠を達成した。個人総合は初めての優勝だった。「自分はオールラウンダーではなかった。あん馬、鉄棒、平行棒と3種目が得意で、その3種目は日本のトップと比べても通用したり、勝てていました。ただ残りの3種目はどちらかといえば苦手だったんです。だから個人総合で優勝できるなんて思っていなかった。種目別以上に重みがあって、とても嬉しかった」と畠田が語るように念願の日本一だった。

 五輪を経験し、メダリストとなったことで周囲の見る目は一変した。それは採点にも表れていたという。「やはりオリンピックや世界選手権の代表となると、選手たちもレベルの高い練習をするので、演技もよくはなります。そして採点する側も、そういう目で見る。先入観で“技術が高い”と思って見ていますから。同じ構成や出来栄えでやっているつもりでも、以前より点数をもらえたりするんです。当然、結果を出し続けていかないといけないわけですが……」
 ジャッジは機械ではなく人間が裁くため、深層心理が判定に影響しないとは言えない。無意識の“加点”は自分自身の変化にもなって表れた。
「代表になってからは、ある程度、自信を持って演技ができるようになります。そうすると、細かな部分ですが、胸を張って演技することで見栄えも違いますし、同じことをやっても巧く見える。余裕があるからこそ出来る技もあるし、いいパフォーマンスも出てくる」

 日本のエースとして成長しつつあった畠田は、国際大会の活躍で、その地位を確かなものとした。94年10月に広島で行われたアジア競技大会では、個人総合で銅メダル。そして種目別あん馬では金メダルを獲得した。さらに1年後、福井での世界選手権では団体、鉄棒、あん馬の3種目で銀メダルを手にした。団体では14年ぶり、日本人が苦手とされるあん馬では25年ぶりの世界選手権銀メダルである。畠田は長い脚から繰り出すキレイで、力強い旋回で観客を魅了。世界に“HATAKEDA”の名をアピールした。

 それでもリアリストの畠田は、いたって冷静だった。それよりも、もっと上を求めている自分がいた。「2つとも国内での大会でしたからホームアドバンテージで点数が出るイメージがある。もちろん、結果は嬉しかったのですが、“海外での大会でメダルを獲りたい”という思いがありましたね」。畠田が見据える先には、翌年の米国アトランタで開催される五輪があった。

 疑念の判定、惨敗のアトランタ

 96年、畠田は周囲の期待通りに“体操ニッポン”の柱へと成長し、アトランタ五輪の代表選考会では、トップ通過で代表切符を手にした。鉄棒では大技“連続コバチ”に挑戦し、落下するミスを犯しながらも2位に大差をつけて優勝した。

 世界選手権では3つの銀メダルを獲得していた畠田には当然、期待も大きく、彼にかかる重圧は並大抵のものではなかったはずだ。それでも畠田は自然体を貫いた。「そんなに重荷になるという感じじゃなかった。期待していただけるのは嬉しいことでしたからね。だからといって、自分ができることは限られている。それでダメならしょうがない。とにかく、自分ができることをやろうと考えていました」

 だが、結果は惨敗だった。まずは団体戦、前年の世界選手権では1位だった規定演技で日本は8位と大きく出遅れてしまった。3位ウクライナとは2点以上もの差を付けられ、表彰台は絶望的だった。規定開始直前にメンバーのひとりが骨折するアクシデントに見舞われる不運もあった。
「自分たちの中では、そんなに悪い演技ではなかったんです。ただ審判に評価してもらえなかった。団体では6人が一緒に回って、点数がつく。全部で3班があり、日本は2班だったのですが、最終班がすごく点数が出たんです。それほど強くないチームも、上位に入っていましたから」

 採点に不信感を抱きつつも、日本は自由演技で出遅れを取り戻そうとした。畠田も得意の鉄棒で、連続コバチに挑んだ。1つ目のコバチを決め、その勢いのままつなげようとしたが、2つ目ではバーを掴めず落下。エースの攻めの姿勢も実らなかった。結局、日本は順位をさらに下げて史上最低の10位に終わる。入賞にすら手が届かず、金メダルのロシアとは10点以上の差をつけられる完敗だった。

 個人でも畠田は個人総合で15位。種目別で決勝に進めたのは、あん馬のみだった。「個人的には鉄棒でメダルを獲れる自信があった。規定の出来は結構よかったんです。でも次の班の選手にポンポン点が出ていた。それを見て“もしかしたら残れないかも”と。選手村に帰ってから、再放送を見たんです。その演技を見ていても、『なんでこんなに出るの?』と、みんなで話していました。日本が良いと思っていることが評価されなくて、逆に意識していなかったところで減点されていたのかもしれません。でも、そのあたりが自分たちの甘さだった。どこをどう見られても、減点されない演技をしなければいけなかったのですが……。それでも“こんなに違うのか”という思いはありましたね」

 結局、日本は五輪、世界選手権を合わせて戦後初のメダルなしに終わった。それまで “お家芸”とまで言われた日本体操界にとって、屈辱の歴史が刻まれたのだ。エースとして挑んだ畠田もまた失意に暮れていた。判定に対するモヤモヤもあり、すぐに“(次の)シドニーに行くぞ”という気にはなれなかったのが正直な心境にあった。年齢的にも、20歳と24歳では4年後を目指す意味も立場も違っていた。それでも、やはり畠田は体操から離れなかった。

(第4回につづく)
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畠田好章(はたけだ・よしあき)プロフィール>
1972年5月12日、徳島県生まれ。小学2年で体操競技をはじめ、鳴門高校時代にインターハイ2連覇を達成。高校3年時、90年のアジア大会で初の代表入りを果たす。日本体育大学に進学後、92年のバルセロナ五輪に出場し、団体銅メダルに貢献した。93年の全日本選手権で個人総合初優勝。95年には2度目の優勝を果たした。同年の世界選手権では団体、鉄棒、あん馬でいずれも銀メダルを獲得。96年のアトランタ五輪にも出場した。2000年に現役を引退。指導者研修のための米国留学を経て、03年から日体大コーチとなり、内村航平をはじめとした数々のオリンピアンを指導した。



(文・写真/杉浦泰介)


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