『ザ・キングファーザー』(カンゼン)という三浦知良選手の父親、納谷宣雄氏を描いた本で書いたように、ぼくは1997年6月から1年ほどブラジルで生活したことがある。
 それ以降も年に1度程度は地球の裏側のあの国を訪れてきた。ぼくにとってブラジルは第二の母国のようなものだ。
(写真:ソクラテスはブラジル・サッカーの変貌を憂慮していた)
 そのブラジル代表がドイツ代表に1対7で敗れた瞬間、不思議と悲しくなかった。正直なところを言うと、ついにこのときが来たのかという気持ちだった。

 感じなかったブラジルらしさ

 今大会、そして2010年大会のセレソンにはブラジルらしさがなかった。

「本当のブラジルのサッカーは遊びと喜びがある。子どもが道ばたで悪戯のようなフェイントをしてみせる、あるいはダンスを踊るように、ギターを弾くようにサッカーをするんだ」
 とは元ブラジル代表、故・ソクラテスの言葉だ。

 ソクラテスはフッチボウ・アルチ(芸術サッカー)の信奉者だった。
 フッチボウ・アルチとは即興性を重んじた攻撃的なサッカーのことだ。ジョーゴ・ボニート(ビューティフルゲーム)と表することもある。優れたブラジル人選手はアーティストだ。独特のリズムで動き、相手を翻弄する。そのリズム、「ジンガ」はブラジル人独特のもので、他の国の人間は体得するのが難しい。

 ロビーニョやジエゴ、あるいはネイマールやガンソがいた時代のサントスFCが愛されたのは、彼らにジンガのリズムがあったからだ。

 しかし、今大会、ルイス・フェリッペ・スコラリ――フェリポンが作り上げたセレソンには、ネイマールを除いてジンガは感じられなかった(ネイマールさえ、ぱっとしなかった!)。

 少ない国内でのプレー経験

 特に攻撃的な選手、オスカル、フッキは、欧州の選手のように、直線的で力任せだった。

 それも無理はない。
 例えばフッキ。彼はブラジル国内でのプレー経験がほとんどない。

 フッキは14歳の時に、ポルトガルへ渡り『ビラノーベンス』というクラブの下部組織に所属している。その後、帰国し、サンパウロFCの下部組織を経て、ビットーリアでプロ契約を結んだ。とはいえ、ビットーリアでの公式戦出場記録は1試合に過ぎない。その後、ご存じのように日本で経験を積み、ポルトガル、そしてロシアへ渡った。

 今回のセレソンの中心、守備的ミッドフィールダーのルイス・グスタボも似たような経歴だ。
 サンパウロ州の小さな街で生まれ、コリンチャンス・アラゴアーノでプロ契約を結んだ。コリンチャンス・アラゴアーノはブラジルの北東部アラゴアス州にあるクラブである。そしてCRB(かつて三浦知良がプレーしたクラブだ!)という全国的には無名なクラブへレンタル移籍した後、ドイツへ渡った。

 ブラジルのほとんどのサポーターは彼らのプレーを欧州から中継される映像でしか知らない。

 ソクラテスはブラジル・サッカーの変貌をこう嘆いていた。
「ブラジルのテレビ局は自国の選手がプレーする欧州リーグの映像を買っている。まるでカカオを輸出して、チョコレートを輸入しているようなものだ。あるいは、ミケランジェロ自体を売り払って、その絵をわざわざ買っていると言ってもいい」

 セレソンは準々決勝のコロンビア戦でネイマールを失った。そして準決勝のドイツ戦。ブラジルらしい選手が誰もいないセレソンがドイツを前に一度リードを許すと、なすすべがなかったのは当然だった。

 王国の強さを取り戻すためには、根本から変えなければならない。それを突きつけた、屈辱的な敗戦だった。

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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