今春、東都大学野球リーグでは新たな歴史の1ページが刻まれた。亜細亜大学が、戦後史上初となる6季連続優勝を達成したのだ。「戦国」とも言われるほど、強豪揃いの同リーグにおいて、この記録はまさに快挙。その立役者となったのが、國學院大学との優勝決定戦、最終戦で決勝打を放った長曽我部竜也である。しかし、決してチームは順風満帆だったわけではなかった。長曽我部はこう語る。
「最初は優勝どころか、監督には『2部降格もある』と言われていたんです」
 そんなチームを優勝へと導いたのは、長曽我部たち4年生の結束力だった。
「このままじゃ、2部に落ちるぞ」
 昨秋、生田勉監督のそんな言葉から、新チームはスタートしたという。九里亜蓮(広島)、嶺井博希(横浜DeNA)のバッテリーをはじめ、昨年の主力メンバーがほとんど抜けたチームは、戦力ダウンは避けられず、指揮官の言葉は決して大げさではなかった。それは選手たちもわかっていた。だからこそ、チーム、特に4年生は結束力を強めた。

 数少ない昨年からのレギュラーで、新チームでは副将となった長曽我部はこう語る。
「個人ではなく、自分たちはチームで勝とうと話し合いました。昨年に比べたら、個人の技術力では劣る。でも、下手くそでもチームがまとまれば勝てるということを証明しようと。だから冬場のトレーニングは、例年の倍以上やりました。いつもは1セットだったものを、3セットに増やしたり……。まずは身体を強くするところから始めたんです」

 しかし、開幕を迎えても、優勝を確実視できるほどの戦力は整ってはいなかった。
「結局、最後は4年生だぞ」
 生田監督からはそんな言葉もしばしば聞かれた。
「オレたちが率先してチームを引っ張っていこう」
 主将の眞野恵祐を中心に、4年生はますます結束力を強めていった。

 ようやく生田監督から「優勝」という言葉が出始めたのは、第3週の青山学院大学戦後のことだった。中央大学戦に続いて青山学院大からも勝ち点を奪うと、指揮官は選手たちにこう発破をかけた。
「ここから上を目指していくぞ」
 チームに初めて「優勝」という二文字が見え始めた。

 結束力を強めた“草むしり”

 だが、優勝への道のりはそう甘くはなかった。中央大、青山学院大、駒澤大学と3週連続で勝ち点を奪い、このまま勢いに乗りたいところだったが、拓殖大学には連敗を喫して落としてしまったのだ。結局、最後は勝ち点3で並んだ國學院大との直接対決となった。その第1戦、亜細亜大は0−4で完封負けを喫した。9回を終えて0−0と接戦を演じながら、10回裏にサヨナラ満塁ホームランを打たれたのだ。

 長曽我部は、敗因をこう語っている。
「山崎(康晃)は粘って9回までゼロに抑えてくれたのに、野手が不甲斐なかった。相手投手を攻略するために、“ボール球を振らない”“引っ張らずにセンター中心に打つ”という指示があったのですが、それを全員で徹底することができなかったんです」
 相手は国学院大エースの田中大輝。春はベストナインに選ばれた好投手だ。武器であるスライダーはキレがあり、ストレートと同じ軌道からカットボールのように、打者の手元で小さく変化するため、見分けが難しい。無理に引っ張ろうとすると、変化に対応することができないため、おっつけて逆方向に打ってつないでいこうというのが、この時のチーム戦略だった。だが、いざ打席に入ると力みが生じ、引っ張ってしまう。そのまま田中の術中にはまってしまったのだ。次の第2戦を落とせば、國學院大の優勝が決まる。亜細亜大は崖っぷちに立たされた。

 その日の夜、合宿所に戻ると、長曽我部たち4年生は話し合いを行なった。そこで全員一致で決定したのが“草むしり”だった。それは“原点回帰”を意味していた。
「昨年までグラウンドが天然芝だったので、練習前に全員で草むしりをするというのが日課でした。歴代の先輩たちもみんなやってきたことで、亜細亜の野球部はそこが原点なんです。でも、今年からグラウンドが新しくなって人工芝になったので、草むしりをする時間が激減していたんです。それで、主将の眞野が『前みたいに、草むしりをして原点に戻ろう』と言ってきた。全員が賛成でした。『そうや、それを忘れていたな』と」

 翌朝、4年生は5時に起床し、メイングラウンドの脇に備えられたサブグラウンドに集合して、草むしりを始めた。外野には昨年までメイングラウンドにあった天然芝が植えられており、亜細亜大の伝統がそこにはあった。すると、4年生の行動に気づいた後輩たちも次々とやって来た。嫌な顔をする者、文句を言う者は誰ひとりいなかった。自分たちの置かれた状況を全員が理解していたのだろう。そして4年生の思いが後輩たちに十分に伝わっていたのである。

 その日の第2戦は、投打ががっちりとかみ合った。命運を託された3年生の川本祐輔が初先発ながら要所を締める粘りのピッチングで完封。打線もともに4年生の渡将太、池知佑也の2点タイムリーで4得点。前日のお返しとばかりに、4−0で完封勝ちを収めた。
「野球の神様はいるんだな、と思いました」
 試合後のインタビューで、生田監督はそう語った。それは選手たちも同じだった。長曽我部はこう語っている。
「もちろん、草むしりをしたからといって、勝てたわけではありません。でも、ひたむきさを取り戻せた。それがプレーにもつながったのだと思います」

 スクイズ失敗後の決勝打

 そして翌日の第3戦。勝った方が優勝という大一番は、両エースの好投で、9回を終えて1−1。延長にもつれこむ大接戦となった。迎えた10回表、亜細亜大は1死三塁のチャンスを迎えた。打席には長曽我部。この試合、長曽我部は3打数無安打と、一度もバットから快音は聞かれていなかった。

「打っていくか? それともスクイズするか?」
 打席に入る直前、ベンチから生田監督がそう声をかけてきた。
「スクイズでいかせてください」
 長曽我部は迷わず「それまで失敗したことがない」というスクイズを選んだ。ところが、相手バッテリーはしっかりとそれを読んでいた。初球、大きく外角へ外してきたのである。だが、長曽我部にとっても、それは想定内だった。
「1点を争う展開で、1死三塁。しかもバッターが僕ですからね。バッテリーもスクイズを予想しているだろうとは思っていました」
 それでもバットに当てる自信があった。

 しかし、ボールの外し方は予想以上に大きかった。懸命にバットを伸ばすも、当たらずに空振りをとられた。
「しまった!」
 これで飛び出した三塁ランナーが三本間に挟まれて2死無走者に……。誰もがそう思った瞬間、三塁ランナーの池知が咄嗟の判断で走るのをやめ、三塁に戻った。同級生の好判断に助けられた長曽我部。もうミスは許されなかった。
「ものすごく緊張しました。少なくとも三振だけはしてはいけない場面だったので、とにかくバットに当てることだけを考えていました」

 ボールカウント2−1からの4球目、真ん中低めのストレートを、長曽我部は叩き潰すようにして強振した。
「バウンドが高ければ、ランナーを返せる」
 長曽我部は内野安打でもいいと思っていた。だが、打球は内野の間を抜けてセンターへ。三塁ランナー池知は悠々と返り、亜細亜大に貴重な勝ち越し点が入った。一塁に到達後、長曽我部がベンチを見ると、チームメイトたちが笑顔でガッツポーズをしていた。長曽我部もそれに応えるようにガッツポーズ。チームの絆を改めて感じた瞬間でもあった。

 しかしその裏、2死一、三塁とピンチの場面で山崎が右足の痙攣を起こした。酷暑の中、中1日での先発で疲労はピークに達していたのである。それでも山崎はエースの意地を見せた。一度ベンチに戻って治療し、自ら続投を願い出て再びマウンドに上がった山崎は、最後の打者を内野ゴロに。三塁手から送られたボールが一塁手のグラブに収まった瞬間、亜細亜大の23度目の優勝が決まった。「チームがまとまれば勝てる」ことを証明したのである。長曽我部にとっても、忘れられないシーズンとなった――。

(第2回につづく)

長曽我部竜也(ちょうそかべ・たつや)
1992年7月19日、愛媛県生まれ。4歳上の兄の影響で幼稚園の時からソフトボールを始める。小学2年の途中から地元のリトルリーグに、小学6年の途中からボーイズリーグに入る。新田高校では3年夏に県大会で4強入り。亜細亜大学では3年春からショートのレギュラーをつかみ、26打数10安打、打率3割8分5厘で首位打者に輝く。4年となった今年は副将を務め、チームの主力として活躍。春は打率3割3厘、15打点で、戦後史上初の6季連続となる23度目の優勝に大きく貢献した。170センチ、65キロ。右投左打。

(文・写真/斎藤寿子)


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