9月24日、群馬ダイヤモンドペガサスとの地区チャンピオンシリーズに敗れ、新潟アルビレックスBCの2014年シーズンが終了しました。それは僕の野球人生のファイナルの時を迎えたことも意味していました。もちろん、優勝することができなかったことに対しては、非常に悔しい気持ちがあります。ただ、個人としては悔いなく野球人生を終えることができ、今はすっきりした気持ちでいます。そして、こんなふうに引退の時を迎えられたことをとても感謝しています。
 新潟には2008年から7年間在籍し、お世話になりました。振り返ると、とても大きく成長させてもらった7年間でした。新潟では4人のNPB出身監督との出会いがありました。芦沢真矢さん(08〜10年)、橋上秀樹さん(11年)、高津臣吾さん(12年)、内藤尚行さん(13〜14年)です。それぞれに、さまざまなことを教えていただき、野球人としてのみならず、ひとりの人間として成長させていただきました。

 7年間で特に培われたのは、プロとしての覚悟だったように思います。僕は高校を卒業してすぐに18歳で広島カープに入団し、プロの世界に入りました。しかし、甲子園経験もなく無名高校出身の僕には、「プロとは何ぞや」ということが、まったくわかりませんでした。「プロとしてどういう気持ちをもたなければならないのか」「どういう言動をしなければならないのか」ということが、正直広島時代の3年間ではわからないまま、戦力外通告となったのです。

 しかしその後、海外の独立リーグや日本の社会人野球、そしてBCリーグで年齢を重ねていくことで、いかにプロとしての覚悟が重要か、そしてそれなくして成長はないということを知りました。そのプロとしての覚悟は何なのか――。それは自分の意志をしっかりと持ち、言動に責任を持つということです。広島時代の僕には、それがありませんでした。無名の高校から、それこそ右も左もわからない状態でプロに入り、プロと自分とに雲泥の差があることを思い知らされた僕は、ただ周囲から言われたことをやるだけ。課されたノルマを達成させるだけで精一杯の状態で、その場をしのぎ切るだけでした。

 3年目のオフ、戦力外通告をされた時、「やっぱりな」という気持ちと同時に、何もできなかった自分に対しての後悔が出てきました。BCリーグでは、その経験を踏まえたうえで「もしもダメだったら自分の責任」という気持ちでずっと過ごしてきました。そう考えると、自然と自分が今、何をやらなけれいけないのかがわかってくるのです。

 引退決意は、昨オフからの覚悟

 7年間を振り返ってみて、最も印象深いシーズンはと問われれば、やはり高津監督の下、日本一となった12年シーズンを外すことはできません。僕が入団した08年は、球団としては2年目のシーズンでした。前年、新潟は勝率2割5分7厘と、ダントツの最下位に終わっていました。その翌年、僕が入団したわけですが、正直言って、はじめは選手たちの意識の低さを感じていました。チームの規律が乱れていて、いかにも弱小チームの典型、という部分が数多く垣間見られたのです。

 しかしその年、監督に就任した芹沢さんの厳しい指導の下、チームは徐々に変わっていきました。そして翌年からは僕自身がコーチを兼任するようになり、指導者の立場としてチームの意識をより高いものにしていこうと努めてきました。そうしていくうちに、チームはどんどん強くなっていきました。そして11年には宿敵だった群馬ダイヤモンドペガサスを破って初めての地区優勝。翌12年には初のリーグチャンピオン、さらには日本一へと上り詰めて行ったのです。

(写真:喜びを分かち合った中山コーチ<右>)
 リーグ一の弱小球団から、常勝球団へと変わっていく、その過程を見てきた僕にとって、日本一達成は感慨深いものでした。でも、一番嬉しかったのはリーグチャンピオンの瞬間だったかもしれません。リーグ優勝が決まった瞬間、当時新潟の投手コーチだった中山大コーチ(現富山サンダーバーズ投手コーチ)と「やっと勝てた」と言って、2人で嬉し泣きをしたことは、今でも鮮明に覚えています。中山コーチは球団創設の07年には球団職員として在籍し、翌年には選手として入団。10年からはコーチを務めていましたので、気持ちはまったく一緒だったのです。

 でも、もうひとつ欠かすことができないのが、今シーズンです。現役を引退することを発表したのは8月でしたが、覚悟は昨オフからしていました。昨年、シーズン終了後に契約更改の場で、球団からは引き続き兼任コーチとしてのオファーをいただきました。しかし、そこで僕は選手一本でやることを球団に申し入れたのです。それは「来年が最後のシーズン」という覚悟のうえでした。

 これまでは選手でもあり、コーチでもあるかたちが自分を最も成長させることになると考えていました。と同時に、次のシーズン、自分が成長できるかどうかを物差しにして現役続行を決めてきました。しかし、それでは退路を断ってやる覚悟をもてないのではないかと思ったのです。そして、改めてコーチと選手とどちらがやりたいかと考えた時、やはり自分は選手をやりたいという方が強かった。そこで、あと1年と決めて、100%の気持ちでやり切って、現役生活を終わらせようと考えたのです。その背景には、これ以上を自分には求められないという気持ちがあったのも事実です。

 とはいえ、もしシーズン中にまだ成長している自分を感じ、「やっぱり現役を続けたい」という気持ちが生まれたら、その時はまた考えようという気持ちもありました。しかし、実際は「この1年を最後にする」という決意に勝る向上心は出てきませんでした。そこで8月に引退を発表させてもらったというわけです。

 ファンの支えあっての7年間

 オフからしっかりと準備をし、「やるべきことはやってきた」という気持ちで、今シーズンの開幕を迎えました。しかし、春は調子が上向かず、6、7月の一番苦しい時期には正直、「早くシーズンを終わらせたい」「早く野球が人生終わらないかな」と考えたこともありました。それでも最後まで力を出し切ることができたのは、やはり応援してくれたファンの支えがあったからにほかなりません。

 ファンの皆さんとの思い出は本当に数えきれないほどありますが、なかでも忘れることのできない出来事があります。小学生の時から僕を応援してくれ、球団が主催している野球塾にも通っていた、あるひとりの男の子がいました。その子が僕にお守りをくれたことがあったのです。そして、後で親御さんがそっと渡してくれた手紙には、そのお守りのいきさつが書かれてありました。

 実はそのシーズン、僕はスランプに陥り、なかなかヒットが打てない日々が続いていました。それが自然と表情にも表れていたのでしょう。新潟ではホームでの試合後には必ず選手が球場前に並び、ファンを見送るのが恒例となっています。その時にファンの皆さんと話ができたりするのですが、その時はどうやら僕は近づきがたいオーラを出してしまっていて、その子は話しかけることができなかったのだそうです。それなのに、その子は不調の僕を心配し、東京に遊びに行った時に神社に寄り、打撃開眼の祈祷をしてもらったお守りを、僕のために自分のお小遣いをはたいて購入してきてくれたというのです。

「こんなに自分のことを応援してくれているんだ……」。その時の感動は忘れることができません。親御さんからもらった手紙は今も大切に持っています。BCリーグには「地域と、地域の子どもたちのために」という憲章がありますが、その時改めて僕たち選手が子どもたちに与える影響力の大きさ、そして自分たちの使命感というものを強く感じました。

 向上心をもって臨んだ引退試合

 ホーム最終戦となった9月14日には、引退試合をしていただきました。「4番・ファースト」として先発出場させていただき、最後の3打席目でヒットを打つことができました。実は「ファースト」というポジションは、これまでの野球人生において一度も経験がなく、今シーズンが初めてのことでした。スタメンに限って言えば、ファーストで出場したのはわずか5、6試合。これまで慣れ親しんできた外野の方がプレッシャーもなく、やりやすいのはもちろんです。しかし、引退試合前日、僕は自分から監督に「ファーストでお願いします」と言いました。そこには、最後まで向上心を持ち、挑戦する気持ちを持ってやりたいという、僕なりのこだわりがあったのです。

 それは4年前のある人の言葉がきっかけでした。プロテニスプレーヤーとして世界で活躍した杉山愛さんです。杉山さんは09年の東レ・パンパシフィックを最後に現役を引退しました。その現役最後の大会、杉山さんは今までやったことのない新しいフォームでプレーしたのだそうです。それは「可能性がある限り、最後まで試したかった」という理由からでした。それをある番組で知った時、僕はいたく感動しました。そして「自分も最後まで挑戦し続けよう」と決めたのです。そしてその思いが実現できたのが「ファースト」として出場した引退試合だったのです。

 試合中は最初から最後まで本当に楽しくて、「終わってほしくないな」という気持ちでいっぱいでした。試合後のあいさつでも述べさせてもらいましたが、NPBでの実績もなく、新潟に縁もゆかりもない僕を温かく迎えてくれ、そして引退試合までしていただいたことを本当に感謝しています。

 試合後、恒例のファン見送りの際には、あのお守りをくれた男の子も来てくれました。当時はまだ小学生だった彼も、今は中学1年生。「いろいろとありがとうね」と声をかけると、「応援してきて、本当に良かったです」という言葉をくれました。思わず泣きそうになるほど、その言葉は選手冥利に尽きました。そして「こんな自分でも少しは新潟や子どもたちに貢献できたのかな」と嬉しい気持ちになりました。

 こうして悔いなく野球人生を終えることができたのは、さまざまな人たちの支えがあったからこそですが、なかでも高津さんには感謝してもしきれません。僕は一度、専任コーチに就任したことがありました。それが高津さんが兼任監督となった12年です。しかし、僕の中ではやはり「もう一度選手として挑戦したい」という気持ちがあったのです。すると、監督に就任した高津さんが「オマエ、選手としてやりたいんじゃないか?」と言って来てくれました。「はい」と答えると、「わかった。オレはオマエを戦力として見ているから」と言ってくれたのです。そしてシーズン途中、実際に僕を選手登録してくれました。高津さんがいなければ、僕の現役生活はあのまま不完全燃焼の状態で終わっていたのです。
(写真:気持ちを理解し、現役に戻してくれた高津元監督<右>)

 その年に現役を引退された高津さんには、僕の気持ちがわかっていたのだと思います。そして「悔いなく終わらせてあげたい」と思っていてくれたのでしょう。今年、プレーオフを終えた後、高津さんにお礼の電話をしました。「高津さんのおかげで、今を迎えることができました」。そう言うと、高津さんは「オマエの気持ちはわかっていたから……。最後までやり切れて良かったな」と言ってくれました。高津さん、本当にありがとうございました。

 さて、来年から僕は一社会人としての道を歩みます。未経験なことも多く、苦しいことがたくさんあるかもしれません。しかし、僕は大丈夫だと思っています。BCリーグでの7年間、僕は常に全力で、そして100%の気持ちでやることを心がけてきました。だからこそ、喜びも悔しさも本気で味わうことができました。その7年間を思い起こせば、乗り越えられないものはない。その自信が僕にはあるのです。この1年、覚悟を決め、すべてをやり尽くしました。だからこそ今、「よし、新たなステージで頑張ろう」という気持ちが沸き起こっています。こんなふうに気持ちよく第2の人生をスタートできることに感謝したいと思います。

青木智史(あおき・ともし)プロフィール>:
1979年9月10日、神奈川県出身。98年、ドラフト6位で広島に入団したが、2000年オフに自由契約の身となる。その後渡米し、トライアウトを受け続けた結果、03年にシアトル・マリナーズ1Aと契約。しかし、同年に解雇。翌年には豪州のセミプロチームに所属し、05年には豪州選手主体のウェルネス魚沼に唯一の日本人選手として入団した。同年夏にはセガサミーに入社。08年、新潟アルビレックスBCに入団し、09年よりプレーイングコーチに就任。08年に本塁打王に輝くと、09年には本塁打、打点の2冠を獲得した。今年8月に現役引退を発表した。187センチ、100キロ。右投右打。
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