田中正義(創価大学硬式野球部)<後編>「発展途上の最速154キロ右腕」
田中正義は4人兄弟の3番目。父親によれば、他の兄弟とはまったく違う性格だったという。
「他の兄弟3人は結構しっかり者でしたが、正義はふだんはぼーっとしているところがあって、忘れ物も多かったんです。ランドセルを家に置いたまま、学校に行くこともありましたね(笑)。でも、興味のあることに対しての集中力はすごかった。特に体を動かすことに関しては、当時からストイックな面がありました。竹馬でも一輪車でも、できるようになるまでは、絶対に帰ろうとしないんです。もう、泣きながらでもやり続けていましたね」
そんな田中が最も興味を持ったのが、野球だった。
「僕、野球がやりたい」
田中が両親にそう言ってきたのは、小学校に入学して間もなくの頃だったという。早速、父親と2人、地元にある少年野球チームを見学に訪れた。
「2チームを見たのですが、ひとつは和気藹々とした雰囲気で、結果よりも楽しくという感じでした。もうひとつは、声を張り上げて練習していて、いかにも厳しそうだったんです」
田中が自ら選んだのは後者だった。「きっと、厳しいぞ。大丈夫か?」という父親の問いにも、「大丈夫」と特に不安な様子はなかったという。
小学2年生にもなると、田中はピッチャーとして投げるようになった。球速は同級生よりも速く、投げることは得意だった。だが、一方で打つ方は苦手としていたという。
「小学3年生の時だったかな、休日に公園で練習したことがあるんです。私が下からボールを投げて、正義が打つんですけど、どうしてもバットが遅れて出てきて、引っ張ることができない。何度やらせてもダメなので、正直この子はここまでなんだろうな、と思いました」
ところが、それから2、3週間後、父・淳は驚きの光景を目の当たりにした。
「いきなり引っ張り始めたんですよ。それまで全然できなかったのに……。あまりの突然の出来事に、もうビックリしてしまいました」
そして、こう続けた。
「その時、思ったんです。『この子は、自分でどうやったらうまくいくか、考え続けたんだろうな。そうやって、つかんでいくんだな』って」
野球に対して考えることをやめない田中の原点がそこにはあった。
苦しみを成長に変えた高校時代
「高校時代はひとつもいい思い出がない。今でもあまり思い出したくない」と語るほど、田中にとって、高校3年間は苦しい日々の連続だった。創価高校に入学した田中は、1年の夏、エースナンバーを背負った。本来、エースであるはずの3年生がケガ続きで不調だったのだ。そこで練習試合でも結果を残していた田中に、白羽の矢が立ったのだ。
甲子園の切符をかけて行なわれた西東京大会、田中は3回戦から登板した。チームは順当に勝ち上がり、ベスト16へと進出した。迎えた準々決勝、相手は早稲田実業だった。その日、田中はそれまでにはなかった緊張感を味わっていた。
「試合前のブルペンの時からおかしかったんです。地に足がついていなくて、足がブルブル震えていました。試合が始まってからのことはまったく覚えていないんです。気づいたら、マウンドを降りていました」
初回から四球を連発し、4失点。3回にも失点を重ねた田中は、そのイニングの途中で降板した。
すると今度はケガに泣かされた。その年、秋の大会を終えてオフのトレーニングの最中、田中は右肩に痛みを覚えた。原因は父・淳によれば、いわゆる成長痛だった。現在、身長186センチの田中だが、中学に入学した当初は159センチと、平均より少し大きい程度だった。ところが、中学3年間で20センチも伸びたのだ。そのため、中学時代からかかどなどに痛みがあった。医師の話では、ほとんどの場合、男子は15〜16歳で痛みはおさまるという。だが、田中の身体は高校入学以降も成長が止まっておらず、そのためにピッチャーである田中にとって最も負荷のかかる右肩に痛みが発症したのだ。
なかなか肩は回復せず、田中は外野手への転向を余儀なくされた。3年にもなると、肩の痛みはほとんどなかったが、田中がピッチャーに戻ることはなかった。
「自分は4番でもあったし、キャプテンとしての責任もありました。同級生にはエースもいたので、自分は与えられたポジションで頑張った方がチームにとってはいいと思ったんです。それに、キャプテンとしてチームを見ることだけでいっぱいいっぱいでしたから、投げたいと思う余裕はありませんでした」
3年の夏は準決勝敗退。一度も甲子園に行くことなく、高校3年間が幕を閉じた。
田中にとっては苦い思い出ばかりの高校時代だが、父・淳には息子の成長を感じた3年間でもあった。
「最初に正義の成長に驚かされたのは、1年生か2年生の時でした。寮に入っていたので、帰宅できるのは夏休みと年末年始の2回だけだったのですが、久しぶりに家に帰ってきた時、家族が脱いだ靴を、正義がきちんと並べたんです。『そんなこともできるようになったんだ』と私が驚いていたら、『こんなの当然だし』なんて言ってましたけどね。それと一番はキャプテンになったことで、周りが見えるようになったことですね。それまでは人のことなんて考えられるようなタイプではなかったんです。でも、キャプテンになって、自分が人を動かすようになった。そしたら『アイツはこういうことは放っといてもやるから大丈夫』『コイツはこういうふうに指示しないといけないんだ』なんて言うんですよ。それまでは人がどうのこうの、なんてことは一度も会話にのぼったことはありませんでしたからね。観察力がついたなぁ、と思いました」
苦しんだ分だけ、田中は人間的に成長していた。
先輩・小川を超えるエースへ
「肩が治ったら、アイツ、えげつないボールを投げますよ」
昨年、練習試合でもほとんど投げていない田中に対して、チームメイトからはそんな声が飛んでいた。創価大学野球部のトレーナーを務める岩田雄樹は、そんな声をよく耳にしていたという。つまり、今春の目覚ましい活躍は、チームにとってはさほど驚きではなかったのだ。一度も公式戦で登板したことのない田中を、いきなり春の開幕戦で先発させたこともうなづける話である。
一方の父・淳は「まさか、ここまでとは思っていなかった」と語る。
「春のオープン戦を観に行った時、ピッチャーとして投げる姿を久々に見て、感慨深くなりました。高校時代、また投げられるようにと、正義は自分なりに身体のことや栄養のことなど勉強して、トレーニングも一生懸命していたんです。その姿を見ながら、『成長痛さえおさまれば、まだ大学で投げられるようになるのかな』と期待と不安とが入り混じった気持ちでいました。だから、オープン戦を見た時、『やっと、この時が来たか』と思ったんです。ただ、あんなに速いボールが投げられるようになるとは思ってもいませんでした。ここまでの活躍は想像していなかったので、驚いています」
しかし、週に1度、大学を訪れて選手たちの予防治療を行なっている岩田にしてみれば、現在の田中はまだ“序の口”である。例えば球速にしても、現在の最速154キロは、もともとある素質だけで十分に可能な数字であり、今後の鍛え方によってはまだまだ伸びると踏んでいるからだ。しかし、そのためには克服しなければならない課題は少なくないという。
「田中の身体は決して細くはないのですが、まだ物足りなさがある。彼は腕のしなりを使って投げるタイプのピッチャーなのですが、さらにしなりを出すためには瞬発系の筋力がもっと必要です。それと、一番は体幹の強さ。田中は連投で疲労が出てくると、フォームが崩れて、ボールが抜けるんです。その原因は体幹の弱さにあります。腹筋、背筋といった身体の中心部分を鍛えることで、150キロ中盤、あるいは後半のボールが常時投げられるようになると私はにらんでいます」
田中自身が現在、最も意識しているのが、投げる時に踏み出す左足の“粘り”によってつくられる“間”である。
「小川さん(泰弘、現ヤクルトで創価大出身)のように、左足を上げてから踏み出すまでの“1、2の3”の“の”でどれだけ粘れるか。その間が長ければ長いほど、右腕をトップまでもっていくことができる時間を稼ぐことができる。踏み出しの足が早くついてしまうと、右腕もトップの位置に上がり切らないまま振らなければいけない。そうすると、頭とボールとの距離が遠くなって、ヒジに負担がかかる投げ方になってしまうんです。左足で間がとれれば、意識せずとも自然に右腕が上がってくる。そういう投げ方を身に着けられれば、もっといけると思っています」
この課題もまた、股関節の柔軟性とともに必要とされるのは体幹であろう。
また、メンタル面での成長も欠かすことはできない。岩田はこう語る。
「先輩である小川は、学生時代から本当に意識が高かった。考えていることが、他の選手とはまったく次元が違っていたんです。僕の方が勉強させてもらっていたくらいですよ。小川と比べると、田中はまだまだです。でも、田中の素質は、はっきり言って小川よりも上。創価大学で10年トレーナーを務めていますが、これまでの中でダントツですよ。将来を考えると、どれだけのピッチャーになるのか、末恐ろしささえ感じるんです」
そして、岩田は「ただし」と前置きをして、こう付け加えた。
「よく田中にも『オマエの身体を生かすも殺すも、すべてはオマエ次第だぞ』と言っているのですが、肉体を引き上げるのは精神なんです。それが小川にはあった。その小川のレベルにまで田中が上がっていけるかどうかです」
日本球界の歴史に名を刻む大投手へ――片鱗をのぞかせた20歳の右腕から目が離せそうにない。
(おわり)
<田中正義(たなか・せいぎ)>
1994年7月19日、神奈川県出身。小学1年で駒岡ジュニアーズに入団。中学では川崎中央シニアに所属した。創価高校1年夏にエースナンバーを背負うも、同年秋に右肩を痛め、それ以降は外野手として活躍。3年時にはキャプテン、4番としてチームを牽引し、夏は西東京大会ベスト4進出に貢献した。創価大学入学後、再び投手に転向。1年間のトレーニングを経て、今春リーグ戦デビュー。開幕投手を務め、初勝利を完封で飾った。7試合に登板し、3勝1敗、防御率0.43で優勝に貢献。初のベストナインにも選出される。全日本大学選手権では4試合に登板し、3勝0敗、防御率1.33をマーク。特別賞を受賞した。186センチ、89キロ。右投右打。
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(文/斎藤寿子)
「他の兄弟3人は結構しっかり者でしたが、正義はふだんはぼーっとしているところがあって、忘れ物も多かったんです。ランドセルを家に置いたまま、学校に行くこともありましたね(笑)。でも、興味のあることに対しての集中力はすごかった。特に体を動かすことに関しては、当時からストイックな面がありました。竹馬でも一輪車でも、できるようになるまでは、絶対に帰ろうとしないんです。もう、泣きながらでもやり続けていましたね」
そんな田中が最も興味を持ったのが、野球だった。
「僕、野球がやりたい」
田中が両親にそう言ってきたのは、小学校に入学して間もなくの頃だったという。早速、父親と2人、地元にある少年野球チームを見学に訪れた。
「2チームを見たのですが、ひとつは和気藹々とした雰囲気で、結果よりも楽しくという感じでした。もうひとつは、声を張り上げて練習していて、いかにも厳しそうだったんです」
田中が自ら選んだのは後者だった。「きっと、厳しいぞ。大丈夫か?」という父親の問いにも、「大丈夫」と特に不安な様子はなかったという。
小学2年生にもなると、田中はピッチャーとして投げるようになった。球速は同級生よりも速く、投げることは得意だった。だが、一方で打つ方は苦手としていたという。
「小学3年生の時だったかな、休日に公園で練習したことがあるんです。私が下からボールを投げて、正義が打つんですけど、どうしてもバットが遅れて出てきて、引っ張ることができない。何度やらせてもダメなので、正直この子はここまでなんだろうな、と思いました」
ところが、それから2、3週間後、父・淳は驚きの光景を目の当たりにした。
「いきなり引っ張り始めたんですよ。それまで全然できなかったのに……。あまりの突然の出来事に、もうビックリしてしまいました」
そして、こう続けた。
「その時、思ったんです。『この子は、自分でどうやったらうまくいくか、考え続けたんだろうな。そうやって、つかんでいくんだな』って」
野球に対して考えることをやめない田中の原点がそこにはあった。
苦しみを成長に変えた高校時代
「高校時代はひとつもいい思い出がない。今でもあまり思い出したくない」と語るほど、田中にとって、高校3年間は苦しい日々の連続だった。創価高校に入学した田中は、1年の夏、エースナンバーを背負った。本来、エースであるはずの3年生がケガ続きで不調だったのだ。そこで練習試合でも結果を残していた田中に、白羽の矢が立ったのだ。
甲子園の切符をかけて行なわれた西東京大会、田中は3回戦から登板した。チームは順当に勝ち上がり、ベスト16へと進出した。迎えた準々決勝、相手は早稲田実業だった。その日、田中はそれまでにはなかった緊張感を味わっていた。
「試合前のブルペンの時からおかしかったんです。地に足がついていなくて、足がブルブル震えていました。試合が始まってからのことはまったく覚えていないんです。気づいたら、マウンドを降りていました」
初回から四球を連発し、4失点。3回にも失点を重ねた田中は、そのイニングの途中で降板した。
すると今度はケガに泣かされた。その年、秋の大会を終えてオフのトレーニングの最中、田中は右肩に痛みを覚えた。原因は父・淳によれば、いわゆる成長痛だった。現在、身長186センチの田中だが、中学に入学した当初は159センチと、平均より少し大きい程度だった。ところが、中学3年間で20センチも伸びたのだ。そのため、中学時代からかかどなどに痛みがあった。医師の話では、ほとんどの場合、男子は15〜16歳で痛みはおさまるという。だが、田中の身体は高校入学以降も成長が止まっておらず、そのためにピッチャーである田中にとって最も負荷のかかる右肩に痛みが発症したのだ。
なかなか肩は回復せず、田中は外野手への転向を余儀なくされた。3年にもなると、肩の痛みはほとんどなかったが、田中がピッチャーに戻ることはなかった。
「自分は4番でもあったし、キャプテンとしての責任もありました。同級生にはエースもいたので、自分は与えられたポジションで頑張った方がチームにとってはいいと思ったんです。それに、キャプテンとしてチームを見ることだけでいっぱいいっぱいでしたから、投げたいと思う余裕はありませんでした」
3年の夏は準決勝敗退。一度も甲子園に行くことなく、高校3年間が幕を閉じた。
田中にとっては苦い思い出ばかりの高校時代だが、父・淳には息子の成長を感じた3年間でもあった。
「最初に正義の成長に驚かされたのは、1年生か2年生の時でした。寮に入っていたので、帰宅できるのは夏休みと年末年始の2回だけだったのですが、久しぶりに家に帰ってきた時、家族が脱いだ靴を、正義がきちんと並べたんです。『そんなこともできるようになったんだ』と私が驚いていたら、『こんなの当然だし』なんて言ってましたけどね。それと一番はキャプテンになったことで、周りが見えるようになったことですね。それまでは人のことなんて考えられるようなタイプではなかったんです。でも、キャプテンになって、自分が人を動かすようになった。そしたら『アイツはこういうことは放っといてもやるから大丈夫』『コイツはこういうふうに指示しないといけないんだ』なんて言うんですよ。それまでは人がどうのこうの、なんてことは一度も会話にのぼったことはありませんでしたからね。観察力がついたなぁ、と思いました」
苦しんだ分だけ、田中は人間的に成長していた。
先輩・小川を超えるエースへ
「肩が治ったら、アイツ、えげつないボールを投げますよ」
昨年、練習試合でもほとんど投げていない田中に対して、チームメイトからはそんな声が飛んでいた。創価大学野球部のトレーナーを務める岩田雄樹は、そんな声をよく耳にしていたという。つまり、今春の目覚ましい活躍は、チームにとってはさほど驚きではなかったのだ。一度も公式戦で登板したことのない田中を、いきなり春の開幕戦で先発させたこともうなづける話である。
一方の父・淳は「まさか、ここまでとは思っていなかった」と語る。
「春のオープン戦を観に行った時、ピッチャーとして投げる姿を久々に見て、感慨深くなりました。高校時代、また投げられるようにと、正義は自分なりに身体のことや栄養のことなど勉強して、トレーニングも一生懸命していたんです。その姿を見ながら、『成長痛さえおさまれば、まだ大学で投げられるようになるのかな』と期待と不安とが入り混じった気持ちでいました。だから、オープン戦を見た時、『やっと、この時が来たか』と思ったんです。ただ、あんなに速いボールが投げられるようになるとは思ってもいませんでした。ここまでの活躍は想像していなかったので、驚いています」
しかし、週に1度、大学を訪れて選手たちの予防治療を行なっている岩田にしてみれば、現在の田中はまだ“序の口”である。例えば球速にしても、現在の最速154キロは、もともとある素質だけで十分に可能な数字であり、今後の鍛え方によってはまだまだ伸びると踏んでいるからだ。しかし、そのためには克服しなければならない課題は少なくないという。
「田中の身体は決して細くはないのですが、まだ物足りなさがある。彼は腕のしなりを使って投げるタイプのピッチャーなのですが、さらにしなりを出すためには瞬発系の筋力がもっと必要です。それと、一番は体幹の強さ。田中は連投で疲労が出てくると、フォームが崩れて、ボールが抜けるんです。その原因は体幹の弱さにあります。腹筋、背筋といった身体の中心部分を鍛えることで、150キロ中盤、あるいは後半のボールが常時投げられるようになると私はにらんでいます」
田中自身が現在、最も意識しているのが、投げる時に踏み出す左足の“粘り”によってつくられる“間”である。
「小川さん(泰弘、現ヤクルトで創価大出身)のように、左足を上げてから踏み出すまでの“1、2の3”の“の”でどれだけ粘れるか。その間が長ければ長いほど、右腕をトップまでもっていくことができる時間を稼ぐことができる。踏み出しの足が早くついてしまうと、右腕もトップの位置に上がり切らないまま振らなければいけない。そうすると、頭とボールとの距離が遠くなって、ヒジに負担がかかる投げ方になってしまうんです。左足で間がとれれば、意識せずとも自然に右腕が上がってくる。そういう投げ方を身に着けられれば、もっといけると思っています」
この課題もまた、股関節の柔軟性とともに必要とされるのは体幹であろう。
また、メンタル面での成長も欠かすことはできない。岩田はこう語る。
「先輩である小川は、学生時代から本当に意識が高かった。考えていることが、他の選手とはまったく次元が違っていたんです。僕の方が勉強させてもらっていたくらいですよ。小川と比べると、田中はまだまだです。でも、田中の素質は、はっきり言って小川よりも上。創価大学で10年トレーナーを務めていますが、これまでの中でダントツですよ。将来を考えると、どれだけのピッチャーになるのか、末恐ろしささえ感じるんです」
そして、岩田は「ただし」と前置きをして、こう付け加えた。
「よく田中にも『オマエの身体を生かすも殺すも、すべてはオマエ次第だぞ』と言っているのですが、肉体を引き上げるのは精神なんです。それが小川にはあった。その小川のレベルにまで田中が上がっていけるかどうかです」
日本球界の歴史に名を刻む大投手へ――片鱗をのぞかせた20歳の右腕から目が離せそうにない。
(おわり)
<田中正義(たなか・せいぎ)>
1994年7月19日、神奈川県出身。小学1年で駒岡ジュニアーズに入団。中学では川崎中央シニアに所属した。創価高校1年夏にエースナンバーを背負うも、同年秋に右肩を痛め、それ以降は外野手として活躍。3年時にはキャプテン、4番としてチームを牽引し、夏は西東京大会ベスト4進出に貢献した。創価大学入学後、再び投手に転向。1年間のトレーニングを経て、今春リーグ戦デビュー。開幕投手を務め、初勝利を完封で飾った。7試合に登板し、3勝1敗、防御率0.43で優勝に貢献。初のベストナインにも選出される。全日本大学選手権では4試合に登板し、3勝0敗、防御率1.33をマーク。特別賞を受賞した。186センチ、89キロ。右投右打。
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(文/斎藤寿子)