福岡ソフトバンクの3年ぶりの日本一で幕を閉じた日本シリーズ。チームに流れを引き寄せたのは2戦目に先発した武田翔太だった。放物線を描くように落ちるカーブを武器に6回2死までひとりの走者も許さなかった。
 阪神打線は3戦目以降も武田のカーブの残像に悩まされる。5安打(3戦)、4安打(4戦)、5安打(5戦)。狂った歯車は最後まで戻らなかった。
「久しぶりに僕と同じカーブを投げるピッチャーを見たよ」。聞き覚えのある声の主は東映・日拓、ロッテ、広島で通算128勝、2度(1972年、74年)の最多勝に輝いた金田留広。この人のカーブは独特だった。大仰ではなくパラシュートのように落ちてくるのだ。失礼ながら、さしてストレートは速くなかった。それでいて三振をとりまくった。

 改めて調べてみて驚いた。1年目は206回で158、2年目は316.1回で246、3年目は268回で187、4年目は275回で178……。ウイニングショットのほとんどがフワリと浮いてストンと落ちるカーブだった。

 いったい、誰に習ったのか。「最初に教わったのはアニキ(正一)。カーブはひねったらダメ。親指と人差し指の間から“抜け!”と言われたんだ」。400勝投手直伝の“魔球”だったのだ。
 金田は続けた。「僕のカーブは途中まで真っすぐと同じ軌道できて、そこから一度浮き上がる。ポーンと浮いた瞬間にバッターは目を切ってしまう。だから対応できなかったんだよ」

 金田が日本シリーズに初めて出場したのはロッテ時代の74年、相手は中日だった。4戦目に先発した金田は、6回を投げて勝ち投手になり、星を2勝2敗の五分に戻す。この試合を含め、ロッテは3連勝で頂点に立った。分水嶺を制した独特のカーブ。「ヒットは打たれたけど、カーブは打たれんかった」と金田は語気を強めた。

「巨人はロッテより弱い」。近鉄・加藤哲郎の発言(本人は否定)で記憶に残る89年のシリーズも、流れを変えたのはカーブだった。0勝3敗と背水の陣の巨人は4戦目、香田勲男を先発に立てた。
 シリーズ初登板だったにもかかわらず、香田はスローカーブを交えた緩急自在のピッチングで近鉄を完封。巨人逆転日本一の呼び水となったのである。「あの軌道のカーブはパ・リーグにはなかった」。敗軍の将・仰木彬はそう言って唇を噛んだものだ。歴史は何度でも繰り返すのである。

<この原稿は14年11月5日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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