第210回 徳島・島田直也「独立リーグでの経験をDeNAで」
今季は初の独立リーグ日本一に、入野貴大(東北楽天5位)、山本雅士(中日8位)のドラフト指名と、いいシーズンの締めくくりができました。独立リーグ日本一はチーム一丸となって戦った結果です。ピッチャーが抑え、バッターが打ち、レギュラーメンバーのみならず、控えの選手も役割を果たしました。
特にBCリーグ王者・群馬との独立リーグ・グランドチャンピオンシップでは扇の要である小野知久の負傷を他の選手がカバーしましたね。アクシデントが起きたのは1勝1分で群馬に渡った第3戦の前日練習。投内連携の練習中に小野が送球を目に当ててしまったのです。本人はきちんと目が開けられない状態で、第3戦以降は控えの高島優大が代役を務めました。
第3戦は大量失点を喫して敗れたものの、第4戦以降は、その反省を生かしたのでしょう。第4戦で完投勝ちを収めた入野をはじめ、バッテリーで打線の強い群馬を抑えました。
このチャンピオンシップで大きかったのは第2戦での引き分けです。先制しながら、相手の主砲フランシスコ・カラバイヨに同点3ランを浴び、その後もムダな失点を与えて3点を勝ち越されました。台風接近で雨が強くなり、もう最後のイニングと覚悟した7回、選手たちが驚異的な粘りを見せてくれました。松嶋亮太の2ランと小林義弘のソロで8−8の同点に。この回限りでコールドゲームが告げられ、負け試合を引き分けに持ち込めました。
チャンピオンシップのルール上、5戦を終えて3勝に満たなくても勝ち越していれば優勝になります。この引き分けにより、徳島は3戦以降、1勝1分以上が日本一の条件とハードルが下がりました。実を言うと、僕はこの規定を引き分けた後に認識したのですが(苦笑)、精神的にも優位に立って敵地に乗り込めたことは間違いありません。僕は監督になってから、選手に「最後の最後まで諦めず、全力プレーをすること」を求めてきました。シーズンラストの大舞台で、それを選手が実践してくれたことは非常にうれしかったです。
何より、日本一の立役者はエースとしてフル回転した入野でしょう。今季は開幕前に先発に転向し、後期はリリーフや抑えもやってもらい、大変だったと思います。それでも16勝3敗2セーブと立派な成績で、ポストシーズンは4戦4勝。大事なところで必ず勝つのがエースの条件です。今季の入野は文字どおりの大黒柱でした。
先発を経験したことで、入野はピッチングにメリハリがつくようになりました。力をうまく抜いてボールをコントロールする術を覚えましたね。目いっぱい放らなくても力の入れどころを押さえれば、いいボールは投げられます。ストライク、ボールの出し入れや、勝負どころでのウイニングショットでバッターを打ち取れるピッチャーになったのではないでしょうか。
彼の進化を物語った試合がグランドチャンピオンシップの第1戦です。3回までは毎回のように走者を背負い、いつ失点してもおかしくない状況でした。しかし、徐々に立ち直り、7回途中1失点。調子が悪くても、試合をつくる。これはNPBでも欠かせない要素です。
チームの中心選手がドラフト指名されることは、とても喜ばしいことです。入野はアイランドリーグ7年目。彼のように時間がかかってもNPBに行けることが証明できた点は、今いるリーグの選手たちにとって良い目標になるでしょう。
入野は年齢的にも1年目から1軍で結果を出すことが要求されます。1軍で成功するためのカギはウイニングショットの精度です。入野の場合はスライダーとフォークが狙ったところにきちんと投げられるか。勝負球が甘く入れば、NPBのバッターは簡単に打ち返します。徳島でも精度の向上は追求してきたテーマですが、楽天では、もっと高い次元で突き詰めていってほしいものです。
もうひとりのドラフト指名選手・山本は実質1年目の右腕。これも独立リーグならではのNPB行きです。入野とは異なり、これからリーグを志す選手にとって夢を与えたと言えるでしょう。
山本は昨季、練習生として体づくりに専念しました。選手登録されなかったのは本人も悔しかったでしょうが、1年間、腐らずトレーニングをしたことが今季の飛躍につながりました。もともと彼はストレートにはキレがあるタイプ。下半身を鍛え、よりいいボールが放れるようになりました。最初は本人もそこまで変化を自覚していなかったと思われますが、実際にバッターを抑えたことが自信となり、さらなる成長につながる好循環を生み出しましたね。
8位という順位が示すように、彼は即戦力とみなされているわけではありません。まずは2軍でプロのピッチャーとして、たくさんのことを吸収して力をつけてほしいものです。彼の持ち味は投げっぷりの良さ。中日でも強気のピッチングを忘れず、バッターと立ち向かっていけば道は拓けるでしょう。
唯一、今回のドラフトで残念だったのは、野手での指名がなかったこと。リストアップされていた選手は何人もいただけに、この点は心残りです。ピッチャーは1試合に4、5人投げることはあっても、野手は各ポジションで出られるのは1人か2人。この現実を考えると、野手の方が指名のハードルは高いのかもしれません。
アイランドリーグの選手がNPBに指名されるには、我々が想定している以上にズバ抜けたセールスポイントが必要なのでしょう。走攻守すべてが平均点よりちょっと上くらいではスカウトの目には留まりません。たとえば打力をアピールするなら打率4割、俊足を売り込むには50盗塁といった圧倒的な数字を残さなくてはいけないでしょう。もちろん、ひとつの武器だけではなく、その他の面で伸びしろを感じさせることも大切です。これは今後、リーグからNPBを目指す野手たちの課題だと感じました。
そして、今回、僕もアイランドリーグから再びNPBにチャレンジすることが決まりました。来季から横浜DeNAの2軍投手コーチに就任します。選手同様、僕も指導者としてNPBで、もう一度、勝負したいとの気持ちがあっただけに、その機会をいただけたことは光栄です。
独立リーグではBCリーグの信濃で4年、徳島で4年、コーチ、監督を務めました。今回のオファーは日本一やドラフト指名という結果を残せたことと無関係ではないと思っています。その点では勉強の場を与えてくれた独立リーグと選手、支援していただいた方には感謝の気持ちでいっぱいです。
当然、NPBの選手たちは独立リーグよりレベルが高いとはいえ、僕が担当する2軍には伸び悩んでいる選手もいることでしょう。どうしたら本領を発揮できるのか。見極め、きっかけを与える作業は独立リーグでも日々、取り組んできたことです。独立リーグでの経験をNPBでも生かし、DeNAの投手陣の底上げに少しでも貢献できればと考えています。
またNPBのユニホームを着られることに今はとてもワクワクしています。指導者として、さらに成長することが応援していただいた皆さんへの恩返しです。今まで本当にありがとうございました。
<島田直也(しまだ・なおや)プロフィール>
1970年3月17日、千葉県出身。常総学院時代には甲子園に春夏連続出場を果たし、夏は準優勝に輝いた。1988年、ドラフト外で日本ハムに入団。92年に大洋に移籍し、プロ初勝利を挙げる。94年には50試合に登板してチーム最多の9勝をあげると、翌年には初の2ケタ勝利をマーク。97年には最優秀中継ぎ投手を受賞し、98年は横浜の38年ぶりの日本一に貢献した。01年にはヤクルトに移籍し、2度目の日本一を経験。03年に近鉄に移籍し、その年限りで現役を引退した。日本ハムの打撃投手を経て、07年よりBCリーグ・信濃の投手コーチに。11年から徳島の投手コーチを経て、12年より監督に就任。今季は初の独立リーグ日本一に導き、来季からDeNA2軍投手コーチとなる。
特にBCリーグ王者・群馬との独立リーグ・グランドチャンピオンシップでは扇の要である小野知久の負傷を他の選手がカバーしましたね。アクシデントが起きたのは1勝1分で群馬に渡った第3戦の前日練習。投内連携の練習中に小野が送球を目に当ててしまったのです。本人はきちんと目が開けられない状態で、第3戦以降は控えの高島優大が代役を務めました。
第3戦は大量失点を喫して敗れたものの、第4戦以降は、その反省を生かしたのでしょう。第4戦で完投勝ちを収めた入野をはじめ、バッテリーで打線の強い群馬を抑えました。
このチャンピオンシップで大きかったのは第2戦での引き分けです。先制しながら、相手の主砲フランシスコ・カラバイヨに同点3ランを浴び、その後もムダな失点を与えて3点を勝ち越されました。台風接近で雨が強くなり、もう最後のイニングと覚悟した7回、選手たちが驚異的な粘りを見せてくれました。松嶋亮太の2ランと小林義弘のソロで8−8の同点に。この回限りでコールドゲームが告げられ、負け試合を引き分けに持ち込めました。
チャンピオンシップのルール上、5戦を終えて3勝に満たなくても勝ち越していれば優勝になります。この引き分けにより、徳島は3戦以降、1勝1分以上が日本一の条件とハードルが下がりました。実を言うと、僕はこの規定を引き分けた後に認識したのですが(苦笑)、精神的にも優位に立って敵地に乗り込めたことは間違いありません。僕は監督になってから、選手に「最後の最後まで諦めず、全力プレーをすること」を求めてきました。シーズンラストの大舞台で、それを選手が実践してくれたことは非常にうれしかったです。
何より、日本一の立役者はエースとしてフル回転した入野でしょう。今季は開幕前に先発に転向し、後期はリリーフや抑えもやってもらい、大変だったと思います。それでも16勝3敗2セーブと立派な成績で、ポストシーズンは4戦4勝。大事なところで必ず勝つのがエースの条件です。今季の入野は文字どおりの大黒柱でした。
先発を経験したことで、入野はピッチングにメリハリがつくようになりました。力をうまく抜いてボールをコントロールする術を覚えましたね。目いっぱい放らなくても力の入れどころを押さえれば、いいボールは投げられます。ストライク、ボールの出し入れや、勝負どころでのウイニングショットでバッターを打ち取れるピッチャーになったのではないでしょうか。
彼の進化を物語った試合がグランドチャンピオンシップの第1戦です。3回までは毎回のように走者を背負い、いつ失点してもおかしくない状況でした。しかし、徐々に立ち直り、7回途中1失点。調子が悪くても、試合をつくる。これはNPBでも欠かせない要素です。
チームの中心選手がドラフト指名されることは、とても喜ばしいことです。入野はアイランドリーグ7年目。彼のように時間がかかってもNPBに行けることが証明できた点は、今いるリーグの選手たちにとって良い目標になるでしょう。
入野は年齢的にも1年目から1軍で結果を出すことが要求されます。1軍で成功するためのカギはウイニングショットの精度です。入野の場合はスライダーとフォークが狙ったところにきちんと投げられるか。勝負球が甘く入れば、NPBのバッターは簡単に打ち返します。徳島でも精度の向上は追求してきたテーマですが、楽天では、もっと高い次元で突き詰めていってほしいものです。
もうひとりのドラフト指名選手・山本は実質1年目の右腕。これも独立リーグならではのNPB行きです。入野とは異なり、これからリーグを志す選手にとって夢を与えたと言えるでしょう。
山本は昨季、練習生として体づくりに専念しました。選手登録されなかったのは本人も悔しかったでしょうが、1年間、腐らずトレーニングをしたことが今季の飛躍につながりました。もともと彼はストレートにはキレがあるタイプ。下半身を鍛え、よりいいボールが放れるようになりました。最初は本人もそこまで変化を自覚していなかったと思われますが、実際にバッターを抑えたことが自信となり、さらなる成長につながる好循環を生み出しましたね。
8位という順位が示すように、彼は即戦力とみなされているわけではありません。まずは2軍でプロのピッチャーとして、たくさんのことを吸収して力をつけてほしいものです。彼の持ち味は投げっぷりの良さ。中日でも強気のピッチングを忘れず、バッターと立ち向かっていけば道は拓けるでしょう。
唯一、今回のドラフトで残念だったのは、野手での指名がなかったこと。リストアップされていた選手は何人もいただけに、この点は心残りです。ピッチャーは1試合に4、5人投げることはあっても、野手は各ポジションで出られるのは1人か2人。この現実を考えると、野手の方が指名のハードルは高いのかもしれません。
アイランドリーグの選手がNPBに指名されるには、我々が想定している以上にズバ抜けたセールスポイントが必要なのでしょう。走攻守すべてが平均点よりちょっと上くらいではスカウトの目には留まりません。たとえば打力をアピールするなら打率4割、俊足を売り込むには50盗塁といった圧倒的な数字を残さなくてはいけないでしょう。もちろん、ひとつの武器だけではなく、その他の面で伸びしろを感じさせることも大切です。これは今後、リーグからNPBを目指す野手たちの課題だと感じました。
そして、今回、僕もアイランドリーグから再びNPBにチャレンジすることが決まりました。来季から横浜DeNAの2軍投手コーチに就任します。選手同様、僕も指導者としてNPBで、もう一度、勝負したいとの気持ちがあっただけに、その機会をいただけたことは光栄です。
独立リーグではBCリーグの信濃で4年、徳島で4年、コーチ、監督を務めました。今回のオファーは日本一やドラフト指名という結果を残せたことと無関係ではないと思っています。その点では勉強の場を与えてくれた独立リーグと選手、支援していただいた方には感謝の気持ちでいっぱいです。
当然、NPBの選手たちは独立リーグよりレベルが高いとはいえ、僕が担当する2軍には伸び悩んでいる選手もいることでしょう。どうしたら本領を発揮できるのか。見極め、きっかけを与える作業は独立リーグでも日々、取り組んできたことです。独立リーグでの経験をNPBでも生かし、DeNAの投手陣の底上げに少しでも貢献できればと考えています。
またNPBのユニホームを着られることに今はとてもワクワクしています。指導者として、さらに成長することが応援していただいた皆さんへの恩返しです。今まで本当にありがとうございました。

1970年3月17日、千葉県出身。常総学院時代には甲子園に春夏連続出場を果たし、夏は準優勝に輝いた。1988年、ドラフト外で日本ハムに入団。92年に大洋に移籍し、プロ初勝利を挙げる。94年には50試合に登板してチーム最多の9勝をあげると、翌年には初の2ケタ勝利をマーク。97年には最優秀中継ぎ投手を受賞し、98年は横浜の38年ぶりの日本一に貢献した。01年にはヤクルトに移籍し、2度目の日本一を経験。03年に近鉄に移籍し、その年限りで現役を引退した。日本ハムの打撃投手を経て、07年よりBCリーグ・信濃の投手コーチに。11年から徳島の投手コーチを経て、12年より監督に就任。今季は初の独立リーグ日本一に導き、来季からDeNA2軍投手コーチとなる。