それで驚いていてはいけない。実は、彼は最大の武器を封印しているのである。
 スプリング・トレーニング(春季キャンプ)で、経験豊富なコーチ陣をして「おまえ、そのボールいつ覚えたんだ?」と仰天せしめたD難度のボールである。
<この原稿は1999年9月号の『PRESIDENT』に掲載されたものです>

 プロ野球では、そのボールを“インスラ”と呼ぶ。言葉どおりインコースのスライダーである。このボールを自在に操れるピッチャーはそうはいない。最近では現・西武ライオンズ監督の東尾修、同じく200勝投手の北別府学(広島カープ)、極北を求めるならば、右ピッチャーとしては史上最高と呼ばれる稲尾和久(西鉄ライオンズ)まで時代を遡らなければならない。

 このボールを投げることで、ストライクゾーンの左右の幅44インチを、さらに広げることができる。右バッターは自らの膝、あるいは腰あたりを襲われるような錯覚にとらわれるため、どうしても腰を引いてしまう。ところが、このボール、打者の腰の手前で鋭く切れ込み、場合によってはホームベースの内角のラインをぎりぎりにかすめていくのだ。

 いや、ストライクにならなくてもいい。このボールがあると知ったバッターは踏み込みを躊躇するようになり、ピッチャーはアウトコースのスライダーやストレートを、より遠くに見せることができる。

 先述した高めのストレートと、“縦スラ”による高低のコンビネーションが、人間の視線の性質を逆手にとったマジックなら、“インスラ”を使った左右の幅の拡張は遠近感を狂わせるマジックであるということができよう。

 いつだったか松坂は“インスラ”についてこう語ったことがある。
「“インスラ”は高校時代から投げていました。高校レベルでは、まず打たれないです。右バッターは腰を引いて見逃します。手を出したとしても、詰まって内野ゴロというのが関の山です。左バッターは、ほとんど空振りしましたね。ストライクは必要ないんです。追い込んでからそこに投げると、ボールでも振ってくれます」

 おそらく“インスラ”を投げない理由も、先のフォークボールのそれと同じだろう。まだ投げる時期ではない、と彼は考えているのだ。
 どこまでも恐ろしい少年である。

 ストレートは速い。変化球は切れる。マウンド度胸は抜群。ピッチャーとして必要なもののすべてを兼ね備えているように見える彼の非凡の真骨頂は、ゲームのマネジメント能力ではないか、と私は考えている。

 ゲームのマネジメント能力――わかりやすくいえば松坂は「負けないピッチャー」だということである。

 その状況でどんなピッチングをすればいいか、どんなボールを投げればいいかを彼は知悉している。マウンドという小高い丘にいて、松坂はフィールド全体の状況をつねに把握しているのである。そうでなければ、甲子園で無敗でいられるはずがない。

 予選を含めると、横浜高校は松坂が高校2年生となった新チームの秋から30勝0敗という驚異的な成績を収めている。
 トーナメント戦はリーグ戦と違い、たった1球の失投やミスが命取りとなる。どんな好投手も、年に1度や2度は魔がさしたような崩れ方をするものである。

 しかし、松坂にはそれがない。危ないゲームはあっても、終わってみれば、きちんとタイトロープを渡り切ってみせているのである。自分を見失ったり、感情に支配されたりすることがないのである。

 高校時代から、松坂を見ていて感心するのは、投げる前につねに内野手の位置を確認している点だ。いわゆるアイコンタクト。おそらく松坂の脳裏には、ダイヤモンドが正確に描かれており、都合のいいところへ打たせているとまでは言わないまでも、指の微調整で打球の方向をあらかじめ限定していることは間違いなさそうだ。

 例えば、ランナーが一、三塁の場合、松坂は左の肩越しに一塁ランナーに厳しい視線を送り続ける。ランナーの離塁を最小限にとどめることでゲッツーの確率を高くするのだ。そればかりではない。クイックモーションで投げると同時に、松坂はマウンド上で低くしゃがむ。離塁を最小限にとどめたうえでランナーの二盗に備えるのである。

 野球の基本といえば基本だが、できるようでできることではない。ベースカバーにしろバント処理にしろ、松坂は勝つために必要な仕事を一切、怠らない。ひとり相撲を取らない。飛び抜けた力を持つスーパーエースでありながら、孤独の色がないのは、そのためであろう。

 内野だけでなく、松坂は外野手にまで目を配る。ボールを投げる前に守備位置を確認するのである。

 自己ワーストの6失点を喫した日本ハムファイターズ戦の5回、小笠原道大のフライがセンター前にポトリと落ちた。続く片岡にタイムリー二塁打を打たれた。調子の悪さも重なって、一瞬、松坂は怪訝な表情を浮かべた。

 外野守備に関するオープン戦での松坂の話が頭をかすめた。

 彼はこう言ったのだ。
「高校時代にはポテンヒットを防ぐため、やや前に守るように指示を出していました。ほら、メジャーリーグがそうじゃないですか。皆、うまいから前に守るでしょう。ああいう守り方をしてもらいたいんです。まあプロになったばかりだから、まだ言いづらい面もあるのですが、メジャーの外野手のように後ろを大きくあけて守ってくれると助かります。これからチームの人たちとも相談していきたいと考えています」

 松坂を称して、人は「怪物」と言う。では、その「怪物」たる根拠は何かといえば、最終的には、先に述べた「ゲームのマネジメント能力」に尽きるのではないか。

 マウンド上の松坂を見ていると、オーケストラのコンダクターとイメージが重なる。彼はフィールドの隅々まで神経を尖らせ、あたかもタクトを振るように、研ぎ澄まされた指先でボールを操る。

 だが、平成の怪物が奏でる交響曲は、まだ第一楽章、いや、序曲に過ぎないことを、私たちは知っておくべである。


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