“鉄人”と聞いて、真っ先に思い浮かぶアスリートが衣笠祥雄だ。1965年、広島に入団し、主力選手としてチームを5度の優勝と3度の日本一に導いた。プロ17年間で歴代5位の2677試合に出場し、2543安打は歴代5位、504本塁打は歴代7位タイの記録を持つ。70年10月から87年10月までで2215試合連続出場の世界記録(当時)を達成し、87年には国民栄誉賞に輝いた。“鉄人”の鋳型を作った猛練習について、二宮清純が訊いた。
二宮: 68年、広島は「シュート打ちの名人」と呼ばれた山内一弘さんを獲得しました。山内さんに声をかけたのは、当時、広島の監督に就任した根本陸夫さんでした。
衣笠: 要するに山内さんは僕らのお手本です。(球団としては)プロ野球で一流の人は“どんな考え方をして、どんな生活をして過ごすのかを間近で見なさい”ということでしょうね。根本さんは西武やダイエーの時も、チームのお手本となる選手を呼んでくる。だから山内さんは僕らにとってはそういう存在です。

二宮: 多くのタイトルを獲ってきた偉大なバッターですからね。山内さんから一番刺激を受けたのはどういう点ですか?
衣笠: 山内さんの言う「バッティング」の意味がわかるのに15年くらいかかったですね。ヒザの動きや左のヒジの抜き方、インコースの打ち方だとか。当時は申し訳ないけど、何を言われても全然わからなかった。

二宮: 山内さんの打球は左に切れなかったですよね。
衣笠: さばき方がうまかった。結局、山内さんの打ち方をするのは無理ですね。長いこと積み重ねてきたものを、いきなりポンともらえるももんじゃない。それ以上に収穫だったのが、「これほどの人がまだこんなに練習するの?」ということでした。

二宮: 練習量は半端じゃなかったですか?
衣笠: 21歳の僕よりもひとまわり以上年上ですが、僕よりもはるかに練習していましたね。

二宮: 量というのは、朝から晩まで。
衣笠: 要するにトータルですね。あれだけ長くやられてきた方だから、うまく抜くところは抜き、やるところはやるというメリハリは当然お持ちだと思うんですが、見ていて、練習量はすごいと思った。

二宮: もう引退に近い時期ですもんね。それでも練習量は若い衣笠さんよりはるかに上。それから意識は変わりましたか?
衣笠: はい。もっとやらないといけないなと思いましたね。

二宮: よく「カープの猛練習」と言いますけど、山内さんが礎を作ったんですね。
衣笠: 山内さんも当然ありますが、やはり広岡(達朗さん)、関根(潤三)さん、小森(光生)さんの3人が、僕ら世代を鍛えまくってくれたことですね。よく言われたのは「オマエらはたいした選手じゃないんだから、練習しなくちゃうまくならないんだ」と。「カープは優勝したいんだ。だから練習しろ」と、標語みたいに言われた言葉でしたね。だからあの時代の練習は厳しい。それが僕らには当たり前になりました。逆にやらないと落ち着かないというか。

二宮: 猛練習の甲斐もあって、87年には連続試合出場の世界記録を更新しました。
衣笠: その時に一番考えたのは“次は誰が来るかな?”“誰が頑張ってくれるかな”と。それがカル・リプケン・ジュニアだったんです。「これだけ頑張ったんだから、次誰か来てくれるかな」という。

二宮: 「誰も破ってくれるなよ」とは思わなかったと?
衣笠: それは違いますね。この時点でリプケンはまだいない。ここから10年経ったら出てくるんですよ。やはり僕は前記録保持者の(ルー・)ゲーリッグに引っ張ってもらったわけですよ。だから僕も人のためにどのくらい引っ張れるかなと思うと、85試合分はリプケンのために役に立った。彼は2632試合ですから、その分、彼は次の人のために頑張ったというわけです。彼を追い越す人が次の時代に出てきたら、リプケンはその人のために役に立った。スポーツの記録というのは、次の時代の人が頑張って、その前の人を追い越して初めて面白さだとか、楽しさ、素晴らしさが生まれるものだと思うんです。例えば陸上の男子100メートルで10秒切れなかったのが、今はもう世界では9秒が当たり前という時代になっている。

二宮: 後輩のために記録を残していく。
衣笠: それが先輩の役割。僕はそう思っています。

二宮: “鉄人”という呼び名はどうですか?
衣笠: はじめは照れ臭かったですが、後になると「あぁ、いいニックネームつけてもらえたな」と思いました。プロ野球の選手で、ニックネームがある人とそんなにたくさんいないんですよ。そういう意味で新聞記者の方につけてもらえてありがたかったなと、今ならそう思いますね。

<現在発売中の『FLASH』(光文社)2015年2月24日号ではさらに詳しい衣笠さんのインタビュー記事が掲載されています。こちらも併せてご覧ください>