岩田雄樹(トレーナー)<後編>「出会いと学びの14年間」
阿部慎之助(巨人)、小川泰弘(東京ヤクルト)、増渕竜義(北海道日本ハム)……今では何人ものプロ野球選手から信頼されるトレーナーとして日々、治療を行なっている岩田雄樹。その仕事ぶりは、想像以上に繊細である。プロ野球選手の場合、1人に要する治療時間は約2時間。岩田は「1日3人が限界」と言う。それだけ1人1人に対して、心身ともに全力で治療を行なうからだ。トレーナーとして歩み始めて14年。今や7人の弟子をもつ岩田だが、「こんなに長く続けることになるとは思ってもみなかった」という。実は、辞めようと思っていた矢先、岩田はひとりの高校球児と出会った。彼から言われたひと言が、岩田の心を突き動かしたのである――。
岩田はいわゆる“野球少年”だった。「野球しかしてこなかった」と語るほど、野球に情熱を注いでいた。高校時代はキャッチャーとして活躍し、3年時にはチームは県内無敵とばかりに、下馬評では甲子園が確実視されていた。ところが、夏の大会を前に岩田はヒジを痛めてしまう。その時、視察に来ていた広島カープのスカウトに同伴していたトレーナーにヒジをマッサージしてもらった。すると、痛みはほとんど消え、無事に岩田は夏の大会でスタメンマスクをかぶった。
結局、甲子園出場はならなかったが、岩田は高校卒業後も社会人チームで野球を続けた。しかし、再びヒジに痛みが生じ、2年で引退。会社も退職した岩田はその後、何をするでもなく、毎日を過ごしていた。それまで野球一筋だった岩田は、何をしていいのかまったくわからなかったのだ。
そんなある日、高校時代のチームメイトで、東京の大学に通う同級生から連絡が来た。岩田が高校3年時にヒジを治療してもらったトレーナーに偶然会い、岩田のことを気にしていたのだという。そして「何もしていないなら、弟子にならないか」という誘いがあったというのだ。岩田は「まぁ、やることもないし、とりあえずやってみようか」という軽い気持ちで、その誘いを受けることにした。この時、岩田は21歳。これが岩田の運命を変えることになるとは、想像すらしていなかった。
心を突き動かした球児からの「ありがとう」
「何の志もなく、なんとなくの気持ちで始めた仕事だったので、あまり魅力は感じませんでした。しかも技術は覚えても、それだけで食べられるわけではなかった。何度も辞めようと思いましたよ」
当時の岩田にはトレーナーという仕事にやりがいが感じられなかった。
そんな岩田に転機が訪れたのは、岩田が23歳の時だった。2002年秋から岩田は滋賀県の近江高校野球部の専属トレーナーとなっていた。その年の秋の大会で同校は近畿大会でベスト8に進出し、翌春の選抜高校野球大会(センバツ)への出場を決めていた。その年、チームには3人のピッチャーがいた。だが、そのうち2人は腰や肩を故障しており、主戦で投げられる状態ではなかった。そのため、残った1人のピッチャーにすべてが託されていた。それが、小原篤だった。
ところが、小原もセンバツ開幕まで1カ月を切ったところで、ヒジに痛みが出始めた。診断の結果、疲労骨折していることが判明した。だが、小原は監督やコーチにはヒジのことは一切言わなかったという。自分しかいないことがわかっていたからだ。
「痛みは我慢できないほどでもなかったですし、とにかく僕しかいませんでしたから」
そんな小原もトレーナーの岩田にだけは相談することにした。小原にとって5歳年上の岩田は、兄貴的存在で、「いなくてはならない人だった」という。
「できるだけのことはしてやるから」
岩田はそう小原に約束した。
その言葉通り、岩田はチームが甲子園入りしてからも、献身的に小原の治療にあたった。小原によれば、治療は毎日2度、多い日には3度行なわれたという。その結果、小原は初戦の宜野座(沖縄)戦を3失点完投し、同校の春初勝利の立役者となった。さらには2回戦、優勝候補の一角だった愛工大名電(愛知)戦では8安打を打たれながらも粘りのピッチングで完封した。
岩田の治療とは、指やヒジで筋肉の裏側までもみほぐすマッサージだ。はじめのうちは普通のマッサージよりも痛みを感じるものの、即効性に優れている。その効果について、小原はこう語る。
「もちろん、疲労骨折が治るわけではありません。でも、岩田先生にマッサージをしてもらうのとしてもらわないのとでは、登板した翌日の疲労感がまったく違うんです。筋肉痛になったりすると、それをマウンドでほぐすには時間を要するものなんですが、岩田先生のマッサージを受けると、筋肉痛になることもない。センバツの時も、身体に何の不安もない状態で臨めました」
小原が「奇跡」と呼ぶ2回戦の勝利後、帰りのバスで小原はウイニングボールを岩田に渡した。
「ありがとうございました。岩田さんのおかげです」
泣いて喜ぶ小原の姿に、岩田はこれまで味わったことのない感情を抱いていた。
「この仕事って、こんなことができるんだ……」
岩田がトレーナーという仕事に初めて魅力を感じた瞬間だった。そして、岩田は続けていくことを決心した。岩田の自宅には、今もそのウイニングボールが大事に飾られている。
教訓となった八木の故障
小原が岩田にもたらしたのは、これだけではなかった。小原は高校卒業後、東京の創価大学へ進学し、野球部に入った。オフになると、東京都内にある岩田の自宅によく治療に訪れていた。そんなある日、「先輩もお願いします」と言って小原が連れてきたピッチャーがいた。それが後に希望枠で日本ハムに入団し、新人王を獲得する八木智哉(現中日)だった。当時、3年生の八木はエースとしてチームを牽引していた。
「実は八木さんも、以前に一度、同じ治療を受けたことがあったんです。でも、あまりの痛さに、もう絶対にやらないと。確かに僕も、岩田さん以外の人にやってもらった時、ただ全力でやるという感じで、痛くて嫌だったんです。でも、岩田さんは違う。その人に合せて力を加減してくれる。すごく丁寧かつ繊細にやってくれるんです。だから八木さんにも勧めました」
小原の読み通り、八木はすっかり岩田の治療を気に入り、翌年にはその八木の希望もあって、岩田は創価大野球部の専属トレーナーとして契約するにまで至ったのだ。
八木はプロ入り後も、自分の専属トレーナーとして岩田と契約した。いかに八木が岩田の治療に絶大なる信頼を置いていたかがわかる。その八木は1年目に12勝(8敗)を挙げ、チームのリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。
「新人王を獲れたのは、岩田さんのおかげです」
そう言って喜ぶ八木を見て、岩田もやはり嬉しかった。ところがそのシーズン、最後の最後に岩田はある教訓を得ることとなる――。
日本シリーズ終了後に行なわれたアジアシリーズ、八木は初戦で先発に抜擢された。前日、岩田はいつも通り八木の肩まわりやヒジまわりを入念にマッサージした。その時は体に異変は感じなかった。八木も「明日は万全でいけます」と語っていたという。ところが、翌日の試合、八木は5回途中で突然、肩の違和感を訴え、降板したのだ。直接の原因はわからなかったが、岩田は「責任の一部は自分にある」と感じていた。そして、このことを機に、治療に対する考え方を変えたという。
「それまでは治療をして、『ちょっといつもより肩がかたいな』などと感じても、選手が治療に納得していれば、『本人がいいと言っているんだから』と、いちいち口に出したりはしていなかったんです。選手が満足することで、自分も一緒になって自己満足していた。でも、そういう治療ではダメだなと。八木に対して、何か早めに言ってあげていたら、ケガを防げていたかもしれない、と思ったんです。だから、何か気づいたことがあれば、ちゃんと言おうと」
その教訓は今、活かされている。実は最近、ある選手からこんなことを言われたという。
「岩田さんの良さは、僕らが気づかないところも言ってくれるところですよね。例えば、自分では『すっかりほぐれている』と思っていても、岩田さんは『いつもより(硬さが)とれていないから、家でもストレッチして』と言ってくれる。それって、僕ら選手にとっては大きいことなんですよ」
この言葉を聞いて、岩田は改めて口に出して伝えることの重要性を痛感した。
「以前は完璧にやることでしか選手の信頼を得られないと思っていたんです。でも、同じ時間で同じ治療を行なっても、いつもよりほぐれなかったとしたら、それこそ言ってあげた方がいいんだな、と」
プロ野球界は華々しい世界に映る。だが、選手たちは皆、身体にむちを打ちながら勝負に挑んでいる。どこにも痛みがない選手は皆無に等しいだろう。そんな選手たちを支えている人たちがいる。岩田も、そのひとりだ。そして、岩田の技術を継承しようと日々奮闘する7人のスタッフもまた、彼に続こうとしている。彼らのような裏方の存在もまた、輝かしいプロ野球の舞台をつくり出しているのだ。
(おわり)
<岩田雄樹(いわた・ゆうき)>
1979年6月19日、新潟県生まれ。東京学館新潟高校卒業後、社会人野球チームに所属するも、ヒジを故障し、20歳で現役を引退する。22歳からトレーナーの道を歩み始める。指やヒジで筋肉の裏側までもみほぐす即効性の高いマッサージで、選手のコンディションづくりに寄与している。2005年より創価大学野球部の専属トレーナを務める。また、都内に「神指一門」の店舗をかまえ、多くのプロ野球選手の治療にあたっている。
(斎藤寿子)
岩田はいわゆる“野球少年”だった。「野球しかしてこなかった」と語るほど、野球に情熱を注いでいた。高校時代はキャッチャーとして活躍し、3年時にはチームは県内無敵とばかりに、下馬評では甲子園が確実視されていた。ところが、夏の大会を前に岩田はヒジを痛めてしまう。その時、視察に来ていた広島カープのスカウトに同伴していたトレーナーにヒジをマッサージしてもらった。すると、痛みはほとんど消え、無事に岩田は夏の大会でスタメンマスクをかぶった。
結局、甲子園出場はならなかったが、岩田は高校卒業後も社会人チームで野球を続けた。しかし、再びヒジに痛みが生じ、2年で引退。会社も退職した岩田はその後、何をするでもなく、毎日を過ごしていた。それまで野球一筋だった岩田は、何をしていいのかまったくわからなかったのだ。
そんなある日、高校時代のチームメイトで、東京の大学に通う同級生から連絡が来た。岩田が高校3年時にヒジを治療してもらったトレーナーに偶然会い、岩田のことを気にしていたのだという。そして「何もしていないなら、弟子にならないか」という誘いがあったというのだ。岩田は「まぁ、やることもないし、とりあえずやってみようか」という軽い気持ちで、その誘いを受けることにした。この時、岩田は21歳。これが岩田の運命を変えることになるとは、想像すらしていなかった。
心を突き動かした球児からの「ありがとう」
「何の志もなく、なんとなくの気持ちで始めた仕事だったので、あまり魅力は感じませんでした。しかも技術は覚えても、それだけで食べられるわけではなかった。何度も辞めようと思いましたよ」
当時の岩田にはトレーナーという仕事にやりがいが感じられなかった。
そんな岩田に転機が訪れたのは、岩田が23歳の時だった。2002年秋から岩田は滋賀県の近江高校野球部の専属トレーナーとなっていた。その年の秋の大会で同校は近畿大会でベスト8に進出し、翌春の選抜高校野球大会(センバツ)への出場を決めていた。その年、チームには3人のピッチャーがいた。だが、そのうち2人は腰や肩を故障しており、主戦で投げられる状態ではなかった。そのため、残った1人のピッチャーにすべてが託されていた。それが、小原篤だった。
ところが、小原もセンバツ開幕まで1カ月を切ったところで、ヒジに痛みが出始めた。診断の結果、疲労骨折していることが判明した。だが、小原は監督やコーチにはヒジのことは一切言わなかったという。自分しかいないことがわかっていたからだ。
「痛みは我慢できないほどでもなかったですし、とにかく僕しかいませんでしたから」
そんな小原もトレーナーの岩田にだけは相談することにした。小原にとって5歳年上の岩田は、兄貴的存在で、「いなくてはならない人だった」という。
「できるだけのことはしてやるから」
岩田はそう小原に約束した。
その言葉通り、岩田はチームが甲子園入りしてからも、献身的に小原の治療にあたった。小原によれば、治療は毎日2度、多い日には3度行なわれたという。その結果、小原は初戦の宜野座(沖縄)戦を3失点完投し、同校の春初勝利の立役者となった。さらには2回戦、優勝候補の一角だった愛工大名電(愛知)戦では8安打を打たれながらも粘りのピッチングで完封した。
岩田の治療とは、指やヒジで筋肉の裏側までもみほぐすマッサージだ。はじめのうちは普通のマッサージよりも痛みを感じるものの、即効性に優れている。その効果について、小原はこう語る。
「もちろん、疲労骨折が治るわけではありません。でも、岩田先生にマッサージをしてもらうのとしてもらわないのとでは、登板した翌日の疲労感がまったく違うんです。筋肉痛になったりすると、それをマウンドでほぐすには時間を要するものなんですが、岩田先生のマッサージを受けると、筋肉痛になることもない。センバツの時も、身体に何の不安もない状態で臨めました」
小原が「奇跡」と呼ぶ2回戦の勝利後、帰りのバスで小原はウイニングボールを岩田に渡した。
「ありがとうございました。岩田さんのおかげです」
泣いて喜ぶ小原の姿に、岩田はこれまで味わったことのない感情を抱いていた。
「この仕事って、こんなことができるんだ……」
岩田がトレーナーという仕事に初めて魅力を感じた瞬間だった。そして、岩田は続けていくことを決心した。岩田の自宅には、今もそのウイニングボールが大事に飾られている。
教訓となった八木の故障
小原が岩田にもたらしたのは、これだけではなかった。小原は高校卒業後、東京の創価大学へ進学し、野球部に入った。オフになると、東京都内にある岩田の自宅によく治療に訪れていた。そんなある日、「先輩もお願いします」と言って小原が連れてきたピッチャーがいた。それが後に希望枠で日本ハムに入団し、新人王を獲得する八木智哉(現中日)だった。当時、3年生の八木はエースとしてチームを牽引していた。
「実は八木さんも、以前に一度、同じ治療を受けたことがあったんです。でも、あまりの痛さに、もう絶対にやらないと。確かに僕も、岩田さん以外の人にやってもらった時、ただ全力でやるという感じで、痛くて嫌だったんです。でも、岩田さんは違う。その人に合せて力を加減してくれる。すごく丁寧かつ繊細にやってくれるんです。だから八木さんにも勧めました」
小原の読み通り、八木はすっかり岩田の治療を気に入り、翌年にはその八木の希望もあって、岩田は創価大野球部の専属トレーナーとして契約するにまで至ったのだ。
八木はプロ入り後も、自分の専属トレーナーとして岩田と契約した。いかに八木が岩田の治療に絶大なる信頼を置いていたかがわかる。その八木は1年目に12勝(8敗)を挙げ、チームのリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。
「新人王を獲れたのは、岩田さんのおかげです」
そう言って喜ぶ八木を見て、岩田もやはり嬉しかった。ところがそのシーズン、最後の最後に岩田はある教訓を得ることとなる――。
日本シリーズ終了後に行なわれたアジアシリーズ、八木は初戦で先発に抜擢された。前日、岩田はいつも通り八木の肩まわりやヒジまわりを入念にマッサージした。その時は体に異変は感じなかった。八木も「明日は万全でいけます」と語っていたという。ところが、翌日の試合、八木は5回途中で突然、肩の違和感を訴え、降板したのだ。直接の原因はわからなかったが、岩田は「責任の一部は自分にある」と感じていた。そして、このことを機に、治療に対する考え方を変えたという。
「それまでは治療をして、『ちょっといつもより肩がかたいな』などと感じても、選手が治療に納得していれば、『本人がいいと言っているんだから』と、いちいち口に出したりはしていなかったんです。選手が満足することで、自分も一緒になって自己満足していた。でも、そういう治療ではダメだなと。八木に対して、何か早めに言ってあげていたら、ケガを防げていたかもしれない、と思ったんです。だから、何か気づいたことがあれば、ちゃんと言おうと」
その教訓は今、活かされている。実は最近、ある選手からこんなことを言われたという。
「岩田さんの良さは、僕らが気づかないところも言ってくれるところですよね。例えば、自分では『すっかりほぐれている』と思っていても、岩田さんは『いつもより(硬さが)とれていないから、家でもストレッチして』と言ってくれる。それって、僕ら選手にとっては大きいことなんですよ」
この言葉を聞いて、岩田は改めて口に出して伝えることの重要性を痛感した。
「以前は完璧にやることでしか選手の信頼を得られないと思っていたんです。でも、同じ時間で同じ治療を行なっても、いつもよりほぐれなかったとしたら、それこそ言ってあげた方がいいんだな、と」
プロ野球界は華々しい世界に映る。だが、選手たちは皆、身体にむちを打ちながら勝負に挑んでいる。どこにも痛みがない選手は皆無に等しいだろう。そんな選手たちを支えている人たちがいる。岩田も、そのひとりだ。そして、岩田の技術を継承しようと日々奮闘する7人のスタッフもまた、彼に続こうとしている。彼らのような裏方の存在もまた、輝かしいプロ野球の舞台をつくり出しているのだ。
(おわり)
<岩田雄樹(いわた・ゆうき)>
1979年6月19日、新潟県生まれ。東京学館新潟高校卒業後、社会人野球チームに所属するも、ヒジを故障し、20歳で現役を引退する。22歳からトレーナーの道を歩み始める。指やヒジで筋肉の裏側までもみほぐす即効性の高いマッサージで、選手のコンディションづくりに寄与している。2005年より創価大学野球部の専属トレーナを務める。また、都内に「神指一門」の店舗をかまえ、多くのプロ野球選手の治療にあたっている。
(斎藤寿子)