「このピッチャーが、本当にすごいのかなぁ……」
 これが2005年から創価大学野球部の専属トレーナーを務める岩田雄樹が、小川泰弘(東京ヤクルト)に持った最初の印象だった。
「小川を知ったのは、彼が創価大学に入学してからのことです。周りから『今年入った1年の小川というピッチャー、なかなかいいですよ』という話は聞いていました。実際に会ったのは1年の冬だったかな。正直、体は小さいし、あまり話さないので、印象は薄いものでした。とてもプロで新人王を獲るような選手には見えなかった。その頃は正直、プロに行けるとも思っていなかったですね」
 しかしその印象は、すぐに覆された――。
 身体をカバーし得る“考える素質”

 岩田にとって、自らが治療を施した最初のプロ野球選手は、八木智哉(現中日)だった。八木は運動神経抜群で、何をやらせても人並み以上にできる万能なタイプの選手だった。もちろん、ピッチャーとしてもずば抜けており、創価大時代は4年間で通算35勝をマーク。4年時の全日本大学野球選手権大会では49奪三振の大会新記録を樹立するなど、誰の目から見ても素質は一級品だった。

「ピッチャーは結構、肉付きがいいというか、脂肪の多い選手が少なくないんです。でも、八木は全身がバネみたいでした。筋肉がまんべんなくついていて、とてもいい身体をしていました。これがプロに行く身体なんだな、と思いましたね」
 06年、希望枠で北海道日本ハムに入団した八木は、その年、先発ローテーションに入り、12勝(8敗)をマーク。リーグ優勝、日本一に貢献し、パ・リーグ新人王にも輝いた。そんな八木と比べて、小川は体が小さく、初めてリーグ戦でのピッチングを見た時も、「こんなもんだろうな」としか思えなかった。

 だが、岩田の小川への印象は徐々に変化していった。そのきっかけとなったのが、09年の秋、明治神宮野球大会代表決定戦だった。当時エースだった大塚豊(北海道日本ハム)が右ヒジを痛め、その代役に1年の小川が抜擢されたのだ。相手は、菅野智之(巨人)を擁する東海大学。大方の予想では、エースを欠いた創価大より、大学屈指のエースが君臨する東海大の方に分があると見られていた。ところが、勝利を収めたのは創価大だった。小川が東海大打線を5安打無失点で完封勝ちしたのである。その後、小川は主戦としてチームの柱となっていった。

「小川は体は小さいですが、そのことを自分で認識して、『この小さい体でどうしなければいけないのか』ということを、しっかりと考えているんです。小さいなりに体を大きく使って投げるダイナミックなフォームにしたり、あるいはふだんの練習も『体が小さいからこそ、他の人よりもやらなくちゃいけない』と、誰よりも努力をしてきた。もともとの素質というよりも、小川の場合は賢さとメンタルの強さが、彼のピッチングを成長させたのだと思います」

 岩田は、小川を見ていると、いつも決まってある言葉を思い出す。
「精神が肉体を引っ張る」
 岩田がまだトレーナーになりたての頃、当時お世話になっていた整体師が口にした言葉だという。
「その時は、『また、何か言ってる』くらいにしか思っていなかったのですが、小川を見ていると『あぁ、なるほどな』と。スポーツだけに限った話ではありませんが、結局、ものごとをどう感じて、どう考え、そしてどういう思いでやるかということなんですよね。それがあってこそ、もともとの素材がいかされる。小川には、小さな身体をカバーし得るだけの考える素質があるからこそ、プロでこれだけ活躍しているのだと思います。年齢は僕よりも下ですが、小川からは学ぶことが本当に多いんです」

“考える素質”はこんなところにも表れている。小川は岩田の治療を受ける前に必ず自分で入念にストレッチをしてくるのだという。それは、少しでも身体をいい状態にするための彼なりの工夫にほかならない。
「ストレッチをしてきたからといって、それほど治療効果は変わらないかもしれません。でも、小川のように自分でできる最大限のことをやろうとすることが、ケガの予防につながるんです」
 こうした強いプロ意識が、小川の強靭な身体の源となっていることは間違いない。

 小川にある“頑固さ”と“柔軟さ”

 小川と出会って6年。この間、岩田は小川の強さを目の当たりにし続けてきた。小川の強さには2つの側面があると岩田は言う。ひとつはこれをやると決めたら必ずやり抜く“頑固さ”。そして、もうひとつは“柔軟さ”だという。岩田にとって、最も印象的だったのは、今や小川の代名詞とも言える「ノーラン・ライアン」のフォームに変えたことだった。

 きっかけは、小川が大学3年春のリーグ開幕戦、東京国際大学戦で打たれたソロホームランにあった。結局、その1本が決勝点となり、創価大は0−1で敗れた。
「チームはみんな、エースの小川が打たれたんだから仕方ない、くらいだったんです。でも、本人は相当ショックだったようで、『このままではダメだ。何かを変えなければ』と思ったようですね」

 そんなある日のことだ。治療中、小川は岩田にこう語りかけてきたという。
「岩田さん、フォームを変えようと思っているんです」
 その時、小川が読んでいると言っていたのが、ノーラン・ライアンの『ピッチャーズ・バイブル』だった。
「普通、フォームを変えると言っても、腕の角度を変えるとか、足の使い方を変えるとか、その程度だと思うじゃないですか。その時の僕は、小川もそうだろうと思っていたんです。だから『自分がいいと思うんだったら、やってみた方がいいよ』と答えました。『ピッチャーズ・バイブル』も、何かヒントになることがあるのかもしれないな、くらいにしか考えていなかったんです。そしたら、あのフォームでしょ。ビックリしましたよ(笑)」

 後日、トレーナー室でシャドーピッチングをする小川を見て、岩田は目の前の光景に目を丸くした。小川はそれまでとはまったく違うフォームになっていたのだ。
「いやぁ、ビックリしましたよ。まさか、ノーラン・ライアンのようなフォームにするとは……。思わず小川に『どうしたの?』って聞いたんです。そしたらいつも通りクールな表情で『これがしっくりくるんです』と……。でも実際、それからの小川の活躍はすごかったですからね。普通は、ほんの少し変えるのにも勇気が要るというのに、小川はあれだけ大胆に変えられるんですからね。それだけ柔軟な考えをもっているからなんだと思います」

 もちろん、小川だからこそ可能とも言える大改造だった。
「小川の筋肉は本来は柔らかいのですが、固まりやすいという性質をもっています。そのため、シーズン中は硬くなってしまう。ただ、股関節は非常に柔らかいんです。だから、あれだけ足を上げることができるんですよ。それと、下半身の強さですね。もともと1年の頃から下半身は鍛えられていて、太かったんです。大胆なフォームでも、軸がブレないのは、強靭な下半身があればこそ。とはいえ、あのフォームを繰り返しやっていくと、やはり負担は大きい。だから、あのフォームにしてからは、より下半身強化やストレッチに力を入れるようになりましたよ」

 大胆に変える勇気と柔軟さ、そして一度決めたことをやり通す頑固さ――。この対照的な2つの要素が小川にはある。それが彼を成長させてきたのだ。

(後編につづく)

岩田雄樹(いわた・ゆうき)
1979年6月19日、新潟県生まれ。東京学館新潟高校卒業後、社会人野球チームに所属するも、ヒジを故障し、20歳で現役を引退する。22歳からトレーナーの道を歩み始める。指やヒジで筋肉の裏側までもみほぐす即効性の高いマッサージで、選手のコンディションづくりに寄与している。2005年より創価大学野球部の専属トレーナを務める。また、都内に「神指一門」の店舗をかまえ、多くのプロ野球選手の治療にあたっている。

(斎藤寿子)
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